2013年、木こりとして働きながら、48歳にしてP-VINEよりデビュー。ブルースの革命児として大きな注目を集めたW.C.カラスさん。年間100本を軽く超えるライブをこなしつつ、近年は、ロックバンド「Wild Chillun(ワイルド・チルン)」を結成し、JIROKICHIでマンスリーを行うなど、バンド活動も本格化しています。今回のインタビューでは、デビューのきっかけや、その精力的な活動の源になっている想い、作品作りなどについて伺いました。
-デビューの経緯、デビュー前の活動についてお聞かせください。
高校生のときに最初のバンドを組みました。一番影響うけたのはローリング・ストーンズですね。ストーンズから広がって、いろんなバンドを聴くようになって、だんだんブルースに傾倒していきました。いつも話すのですが、そのころ、富山にブルース専門のレコード屋さんができまして、簡単にレコードが手に入るようになったんです。さらに、そのタイミングで、ちょうどジョン・リー・フッカーが富山に来て……それを観て一発でやられてしまった。ですから、卒業後は、ブルースバンドばっかりやっていたんです。3~4年くらいですかね。西荻のWATTSというライブハウスで全日本ブルースハープバンド選手権というのがあって、そこで優勝したんですよ。故・妹尾隆一郎さんが審査員長でした。でも、全日本……て書いてあったけど、たぶん応募は少なかったんじゃないかと思うんですよ。笑 一応テープ審査があって、最終の6バンドに選ばれたといっていましたが、もしかすると6バンドしか応募がなかったかもしれません。笑
そんなこんなで、ブルーズ・バンドはすごく楽しかったんですけど、やっぱり、いざこざが起きるわけで。笑 それで、そのブルーズバンドは辞めて、自分のバンドを作って。けれど、しばらくすると、またイヤな感じになってきて。もうバンドはめんどくさいなぁと思って弾き語りをはじめた。でも、弾き語りをちゃんとできるようになるまで、10年くらいかかりましたけどね。
-弾き語りをはじめて、いよいよ全国を廻るようになったわけですね。
いいえ、富山からは出なかったんですよ。ほとんど地元から動かなかった。実は、当時、パニック障害を患っていまして……。乗り物が苦手でした。どうしても見たいライブがあったりすると我慢して電車に乗りましたが、京都あたりまでの距離がせいぜい。それでも磔磔はよく行きました。行くのは決死の覚悟でしたが、ライブをどうしても観たいからしかたがない。日常、車は運転できましたが、高速道路に乗ることができなかったんです。稀に遠征するときは、友人の運転で行きましたが、これも苦しかった。そういうわけで、基本的に、地元だけで活動していました。遠くまでツアーするなんて、そんなこと、恐ろしくてできなかったですね。病気のことは、ようやく話せるようになりましたけど、発症していた頃は、それが言えないんですよ。言ったら世界が変わってしまうような気がして。いじめられっ子が、いじめられていることを打ち明けられない状況と似てるんじゃないかな。
-その症状はいつごろから?
おかしな話ですが、中学二年のころ、遊園地に行って小部屋に座ると内壁が回転して錯覚を起こすアトラクションってあったじゃないですか……それがきっかけなんです。
-びっくりハウスみたいな?
そうそう、そういうやつ。その感じがものすごく怖くて、それが心に焼き付いてしまった。教室とかで、普通に座っていても、その感覚が起こるようになってしまったんです。ものすごくドキドキして「あぁ、またあの感じになる……」って。あの頃は、パニック障害っていう言葉がなかったから「俺、死ぬんじゃないか」って思っていました。どんどん症状がひどくなっていって。
-大変でしたね……何十年も苦しんだんですね。車も乗れない、電車も乗れない。
医者にも行ったけど……向精神薬みたいなのを処方されて、服用すると怠くなる……みたいな感じでしたからね。薬飲んだからってよくならないし、もうどうしようもないなっと思っていました。一生この症状に付き合って暮らしていくしかないって。
-そうだったんですね。全然知りませんでした……。富山でバンド活動や弾き語りをしていた頃は、もう木こりとして働いていたんですか?
いえ、木こりをはじめたのは37歳の頃でした。そう……そうしたらね、木こりの仕事についたおかげかどうかわかりませんが、だんだん、パニック障害の症状が起きなくなってきたんです。
-えーすごい!
今は電車も車も、飛行機だって平気で乗れるようになりましたね。ツアーは一生出来ないと思っていたから、たくさん旅ができるようになって、楽しくてしょうがない。
-なるほど、48歳でデビューというのは理由があったんですね。
病気のことは、本当に話せなかったですね。でも、今は、なるべく話すようにしています。同じ症状で苦しんでいる人を勇気づける……じゃないけど、もしかして、そいういうこともあるかなと思って。地元で取材受けたりするときも、このことには必ず触れますね。
-では、長い間、富山だけで弾き語りをやっていたんですね。
地元だけでずっとやっていたけど、なんとなく自信はあったんです。富山に演奏に来たミュージシャンたちに「君はどこに行っても通用するぞ」って言ってもらったりしていて。
富山で共演したSHYさん(元ハートビーツ/シンガーソングライター)とは、すごく仲良くなって、東京に行ってライブをやったらいいよ、って薦めてくれました。三鷹に「バイユーゲート」っていう店があるから、とにかく一回行って来いって。あそこだったら君のことを絶対好きになってくれるからと。それで演奏しに行ったら、ほんとうに気に入ってもらったんです。それが2012年でした。あと……そのころですね。はじめて自主盤を作ったのは。
-それまでは一切音源はなかったんですね。
なかったです。モアリズムに録ってもらったんですよ。ナカムラがプロデュースしてくれて。でも、彼らは、どっかに売り込もうとかそんなつもりは全然なかったみたいで、俺も手売りだけで売ろうと思っていたんです。でも、バイユーゲートのマスターに音源を聴かせたら「これは絶対に全国流通させないといけない」と。でも、俺は、流通させる手段なんて知らないし、どうしようもないなと思っていた。そうしたら、マスターがP-VINEに売り込んでくれていたんですよ。マスターから「P-VINEから出ることが決まったよ」と電話がかかってきたときは、すごくびっくりしましたね。舞い上がりました。
-JIROKICHIにも噂が聞こえてましたね。W.C.カラス知らないの? なんて。ハーモニカのKOTEZさんやモアリズムのナカムラさんが、最近は地方のほうが逸材がいるね、なんて言っていたのをよく覚えています。
地方にいたからこそ、よかったんじゃないかと、今は思いますね。東京のように、レベルが高くてそこそこ有名だけど、ちょっと頑張れば手が届くようなミュージシャンがたくさんいたりしたら、その人たちに影響を受けてしまっていたかもしれない。だけど、俺は、世界を相手にしていましたからね。笑 地方には、ちゃんとしたミュージシャンなんていないですから。だから、飛び越えちゃって、ジョン・リー・フッカーみたいになろうと。笑 井の中の蛙ですが、海の向こうばかりを観ていたんです。そして、それを目指すなら、自分の世界を創らないといけないと思っていました。自分独特のものを……とね。
-富山から出られないけれど、いずれは全国に自分の名前が知れたらいいなとか、そういった夢や希望は持っていたんですか。
それはずっとありました。自分は外には出られない。だから、自分が演奏している場所に、全国の人が来てくれるようにするしかないな、とか。バカな話ですけど。
-初めてカラスさんを聴いたとき「誰かが死んだら靴を見るといい」っていう歌詞が印象的で、素晴らしいって思ったんですよね。ぐっときました。空を見るといい、あの人が見ていた空を……とか。なんていうか、すごく文学的だと思ったんです。カラスさんの歌には、文学的な影響というのはあるのでしょうか。
あまりインタビューで言わないんですが、まぁ今となっては言ってもいいんだけど、”誰かが死んだら靴をみるといい”と言ったのは、チャールズ・ブコウスキーなんですね。
-あぁ! ブコウスキーですか。
ブコウスキーの「死をポケットに入れて」というエッセイ(実は、死後に発見された日記)にそのフレーズが出てくるんですよ。死んだ人の靴を見るのが一番ぐっとくると。その人が履いていた靴、生前いろんな場所に行ったその靴を見るのが一番だと。そのフレーズがものすごく好きで、いつか詩にしてやろうと思っていたんです。そうしたら、あるとき、スーパーマーケット歩いてたら、メロディーと一緒にツラツラ言葉が出てきて。
あの曲くらいですね、俗にいう「降ってきた」みたいな感じで出来た曲は。”空を見るといい”っていうのは、震災があって、遺体のない人のことも考えなくちゃいけないと思ったんです。遺体の見つからない人を想うとき、その人が見ていた同じ空を見よう……って。
-なるほど……カラスさんの歌は、余計な説明がないので、いろいろ解釈できますよね。たとえば「空を見るといい」だったら、火葬場のことかな、と思ったりとか。行間を読ませる。その辺りのセンスが素晴らしいって思いました。
それはやっぱり本を読んで……歌もそうだけど、行間を読み取らせないと手落ちだぞ、みたいな。それは意識していますね、ある程度。
-”うどん屋で泣いた”も、説明とかないわけじゃないですか。ぼろぼろ泣いた。そこがすごくいい。しかも、素うどんで。その前に何があったとか、勝手に想像しちゃいますから。 他にはどんな作家を読んだりしていますか。
実は、町田町蔵(町田康)ファンで。彼の本はほとんど読んでいますね。あとは、やっぱり西村賢太ですかね。あの人、めっちゃ好きです。
-私小説を書く人が好き?
そうですね、やっぱり好きなのは私小説ですね。ブルーズと似てると思うんですよ私小説って。自分のことを客観的に書いて、ぶっとばすっていうか……そんな感じが好きですね。
-今でもけっこう読まれるんですか
そんなにたくさんは読んでいないですが、町田康と西村賢太は、新刊が出たら必ず読んでいますね。なかなか時間がなくて、新しい人には手が出ないですけどね。もうちょっと読まないといけないな、とは思っています。
-木こりの仕事しながら曲の構想を練ったりは?
よく訊かれるんですけど、そんなことはできないですね。集中しないと危ないですから。木を伐っているときは、他のことは考えられないです。
-音楽的な影響は、ストーンズ、ジョン・リー・フッカーと名前が出ましたが、他には?
まあ、いろんなの聴きましたからね。少年時代、アルバイトをしていたから、他の奴より小遣いを持っていたんですよ。レコードは月に1枚買っていたし。大人になってからは、ブルースばっかり買っていた頃もありました。今日は(6/15)ピアノのリクオさんがゲストで来てくれますけれど……そう、プロフェッサー・ロングヘアーがすごく好きかもしれないですね。よく「無人島に持っていく1枚」とかあるじゃないですか。プロフェッサー・ロングヘアーの「ロックンロール・ガンボ」。そのフランス・ミックスです。ぜんぜん音が違う。このアルバムいろんな要素が絡み合っていて、最高なんですよ。もし1枚だけというならば、そのレコードを無人島に持って行きたいですね。
-2015年に、室井滋さんとアルバムを作って発表されていますが、室井さんとの出会いは……
室井さんは、バンドというか、バンド付きの絵本語りみたいなのを全国行脚でやっているんですよ。ずっとツアーしているわけじゃなくて、呼ばれたら行くみたいな感じで。その室井さんのバンドに、岡淳(オカマコト)さんというサックスの方がいるんですが、岡淳さんが、「富山にこんな人がいる」って俺のことを室井さんに言ったらしいんですね。室井さん、音源を聴いて気に入ってくれて……彼女は、富山でラジオ番組を持っているんですが、その番組に呼んでいただいたのがきっかけです。今は頻繁に会っているわけじゃありませんが、お歳暮とかお中元とか必ず送ってきてくれます。俺も、アルバムが出たときは必ず送ったりします。
-パニック障害があって、富山で長年弾き語りをしていて、木こりになったらふと症状がよくなって、モアリズムやSHYさんとの出会いとか、バイユーゲイトでの演奏、P-VINEからデビュー、室井滋さんとの共演など……そして今は、すごい数の全国ツアーをやっているじゃないですか。ロックバンドを結成したり……カラスさんは、すごく勢いがあると思う。そういった活動の源っていうか、モチベーションはどのあたりに……
どうなんですかね、モチベーションていうか……来たボールを打ち返しているだけなんですけどね。地方から声をかけてもらえるので、合わせてツアーを組んだり。自分から積極的に動いたりしているわけじゃないんですよ。
-これだけツアーをやっていたら、もう木こりはできないですね。
いや、一応、今もやっているんですよ。顔の色を見たらわかると思うけど、だんだん黒くなっているでしょ。日に焼けてきました。ちゃんとやってるんですよ。辞めてはいないですね。でも、山は、ほんとうに疲れる。ツアーは、山へ行ってるより身体が休まるんですよね。山は、ほんとうに苦しいんですよ。とくに夏場は。でも、音楽ばっかりやっていたら、どんどん貧乏になりますけどね。
-ところで、木こりってどうやってなるんですか。
職安ですよ。職にあぶれてる人を緊急的に雇う緊急雇用事業っていうのがあって……通常は三か月で契約が切れるんですけど、働きぶりがよかったので、現場からまた来てくれって言われたんです。木を伐るのすごく楽しかったから、きっと性に合っていたんですね。それでそのまま木こりになったというわけです。
-女性もなれるんですか
なれますけど、少ないですね。大変ですし、お肌にも悪いし。
-チェーンソーとかほんとうに危ないですもんね。
ええ、ほんとに危ないです。
-同業の木こりの方々は、カラスさんがミュージシャンだっていうこと知らなかったんですよね。
そんなこと、わざわざ言わないですからね。室井さんと一緒にやるということで、地元のメディアから取材がたくさん来て、そのとき、新聞に載ったり、テレビにいっぱい映ったりしたんですよ。それで、今はバレていますけど。
-木こりの仲間の前で演奏したことは?
ありますよ。年に2回山祭りってのがあって。そのときに演奏しました。ちゃんとお金もらって。
-Wild Chillun(ワイルド・チルン)について教えてください。結成の経緯は?
ここ(JIROKICHI)でやりはじめたんです。2016年の2月11日だったかな。
俺はすでに、WOOD CUTTERS(W.C.カラスvo,g 井上 “JUJU” ヒロシ sax, fl 江口弘史b 岡地曙裕dr)というバンドをやっていたので、両方やったら大変だなと思っていたんだけど……やってみたら楽しくて。ところが、Wild Chillunは、ギターのChihanaがアメリカへ行くことになってしまって……まあ、淋しいけどしょうがない、またWOOD CUTTERSをやろうかなと思っていたんですよ。そうしたら……なんかほんとうに、淋しいなって思いはじめて「やっぱ俺、あのバンド好きだったんだな」って気がついた。でも、もうしかたがない、とあきらめていたら、なんと一転して、Chihanaはアメリカに行かないってことになって……「オッケー!」みたいな。笑 バンドメンバーもみんなそういう感じになって、それで真剣にこのバンドで作品を作ろうということになったんです。
バンドは、アルバムを作って、ライブを重ねていくうちに、どんどん良くなっていますね。……素晴らしい。やっぱり人間は成長するもんだと。笑
-Wild Chillunでは、カラスさんの衣装やメイクがどんどん派手になってきていますが、今後も進化する?
それはね……今は楽しくてしょうがないんですね。いわゆるビューティーメイク系ですけど、もしかするとアート系に行くかもしれない。急に顔に模様を描きつけたりするかもしれません。笑 楽しくてね。
実は、最初は、楽しいからやりはじめたわけじゃないんです。杉田水脈(国会議員)のLGBT発言ってあったじゃないですか。同性愛者は生産性がないとか。そんなこと言ってるやつがまだ国会議員にいる……わかっていたけど、腹が立ってね。自分なりに、男とか女とか、そんなのどっちでもいいってことを表現したいと思ったんです。こんなこと、ロックの人たちは昔からやっていることですが、自分にとっては新しい挑戦だった。そしたら楽しくなっちゃって。マニキュアだって普段からしてるんですよ。これはベースの岡本さんに言われてね。化粧とかそういうの、普段からやらないと俺は認めない、学芸会的ノリでやってもらっても困る、って怒られて。でも、まぁ、化粧はいいからせめてマニキュアくらいはしとけと言われて。笑
-JIROKICHIについてはどんな印象をお持ちでしたか。
田舎にいたときから、当然知っているわけですよ。いつか出たいと思っていました。それが、先に、声をかけてもらったんですから(JIROKICHIから)。めっちゃうれしかったですよ。P-VINEからアルバムが出るときと同じくらいうれしかったです。(例の症状で)ここには、ライブを観にも来たことがなかったから、初出演のときが初JIROKICHIでした。うれしかったです。今でもうれしいです。
-今後の活動予定は……
そうですね。Wild Chillunでの活動などがメインになると思います。弾き語りのソロはねぇ……散々やったけど、鳴かず飛ばずだったから、もうそんなにたくさんやるつもりないですね。やっぱり、今は、バンドのほうが比重が大きい。ツイッターとかのフォロワーって、ソロでやっているときはジワジワくる感じなのですが、バンドは一気に増えたりするんです。やっぱりバンドってすごいなって、やってみて初めてわかった。ラジオもね、ソロの弾き語りのときはぜんぜん取り上げてもらえなかったけど、Wild Chillunはけっこうかけてくれるんです。
-たまにはソロも聴きたいですけどね。
それはやっぱり地方でやりますよ。もっと人気が出たら、東京でやってもいいですけど……なかなかね。あ、でも今度、高円寺でもやるんですよ。SHYさんと一緒に。
-Wild ChillunのJIROKICHIのマンスリー、是非つづけてほしいなと思いますが、いかがでしょう。
そうですか。ありがとうございます。それはうれしいです。とりあえず1年くらいはやらせてほしいと思っていましたけど、それ以降も、もし、いい感じだったら、もちろんやりたいです。
-本日はお忙しい中、ありがとうございました。今後の益々のご活躍、期待してます!
ありがとうございました。
インタビュー/構成 金井貴弥 撮影/制作 高向美帆
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2019年
■7/26(金)Wild Chillun ゲスト うつみようこ
【Wild Chillun】W.C.カラス(vo,g) Chihana(g) 岡本雅彦b 宮坂哲生dr <ゲスト>うつみようこvo,g
■8/23(金)Wild Chillun ゲスト 梅津和時sax
いずれも 予約(♪3000)当日(♪3500)
【Wild Chillun】https://www.wckarasu.com/