【2017年12月】
【2017年11月】
【2017年10月】
【2017年9月】
【2017年8月】
【2017年7月】
【2017年6月】
【2017年5月】
【2017年4月】
【2017年3月】
【2017年2月】
【2017年1月】

【2017年12月】 《森崎ベラ》
今月の表紙は日本を代表するソウル・シンガーの森崎ベラさんです。ベラさんのバンド「森崎ベラ&Freedom Train」はこのたび、なんと七年越しでレコーディングしたというCDをリリースすることになり、先日、いろいろ伺おうとインタビューをさせていただきました。 森崎ベラさんは、指導者としても知られ、日本で最も早くゴスペル・クワイヤーを作った方です。たくさんのソウル系シンガーたちに多大な影響を与えています。インタビュー記事はJIROKICHIのHPで読めるので、是非、そちらをご覧ください。
ところで、ゴスペル・クワイヤーって皆さんご存知でしょうか。簡単に言うとキリスト教の集会などで賛美歌を歌うコーラス・グループです。ゴスペルには「ホワイト・ゴスペル」と「ブラック・ゴスペル」があり、ゴスペルといえば一般的には、ブラック・ゴスペルの方を指します。ゴスペルはアフリカ系アメリカ人、つまり黒人たちの歌うプロテスタント系の宗教音楽です。賛美歌(聖歌)自体は大変古くから教会で歌われてきましたが、ゴスペルはアメリカで誕生した比較的新しい音楽で、普通の賛美歌とは歴史的背景が違います。
ゴスペルはアメリカの黒人奴隷たちが生み出しました。黒人たちは教会で歌われていた白人たちの賛美歌を、教会の近くの綿畑などで綿を摘みながら、過酷な労働に耐えながら、いつの間にかすっかり覚えてしまっていたのです。やがて、黒人たちの間にもキリスト教の信仰が理解されるようになると、黒人専用の小さな教会ができたりしました。白人たちからもらった古いギターや、白人の教会から壊れたオルガンなどをもらい、彼らはそれを使って、演奏し、歌い、彼らなりに神や天国への思いを歌い始めたのです。皆さんもご存知のように、アフリカ系アメリカ人たちの身体能力、聴力、リズム感などはずば抜けていますから、賛美歌のメロディーも自分たち本来のアフリカのリズムで消化したのでしょう。当時のポップミュージックである、リズム&ブルースやジャズなどから音楽的な影響を受けながら、迫力のある演奏と、魂から絞り出すような歌で、ゴスペル・ミュージックは一躍アメリカ音楽の一ジャンルとして認知されるようになりました。そしてのちのソウル・ミュージックの完成に大きな影響を与えたのです。 日本では、ウーピー・ゴールドバーグさんの主演で大ヒットした「天使にラブ・ソングを」という映画で広く認知されるようになりました。あの映画はカトリック系教会の物語で、実はゴスペルの話ではないのですが「オー・ハッピー・デイ」というゴスペルの有名曲を採用したことで、ゴスペルブームの火付け役となったのです。 ちなみに、まだ日本では誰にも知られていないころからゴスペル・ミュージックに取り組んでいた森崎ベラさんですが、日本でもゴスペルがブームになり、クワイヤーもたくさん出来て大変喜ばしく思ったと同時に、簡単な気持ちで教えを請う不躾な問い合わせも多くなり、閉口したそうです。笑

 

【2017年11月】 《江口弘史》
大井川鉄道を堪能する旅に行ってきました。「大井川鉄道」は、静岡県の大井川周辺の鉄道なのですが、なんとSLが走っているんです。興奮しました。駅に着くとさっそく手続きを済ませ、改札を通り、乗車ホームに駆け寄っていきます。ホームには私たちを載せるあのレトロなSLがドーンと停車しているんです。近づくと、おお熱い!  蒸気機関車ですから、黒い車体がストーブのように熱いのです。離れて見ても、近づいて見ても、どこからどうみてもとにかくカッコいいフォルム。運転席の機器類のアナログ感、ノスタルジックな客車の外観、内装。石炭の匂い。窓から車内を覗き込むと、なんと窓枠は木で作られています。ああ俺たち、SLに乗るんだな、これに乗って大井川を渡るんだな、としみじみと感慨に耽りながら、はっ、忘れてた、写メ撮らなきゃ、あ、弁当を買わなきゃ、ビール、ビール、と慌ててしまいます。 指定された席に座るといよいよ出発です。出発の汽笛が響きます。古い日本映画などで聴くあの「ホー」という音色です。郷愁を感じさせ、優しく、なんていい音なんだとしみじみと感じ入ります。汽笛は長い音や短い音を組み合わせた機関車同士の合図なんだそうです。車窓から眺める風景も最高で、ほろ酔いのうちに、約一時間の乗車時間はあっという間に終わってしまいました。 興奮のうちにSLを堪能すると、夜はコテージに一泊し、翌日は大井川鉄道の井川線「アプト式」という鉄道に乗ります。アプト式というのは、急勾配を登るために「アプト式機関車」をドッキングさせて運行する鉄道システムのことです。「アプト式機関車」の車輪部中央には歯車がついていて、勾配区間の線路にも、その歯車を受ける歯型のレールがついています。これで急勾配を登っていけるというわけです。  勾配に差し掛かると、手前の駅で一旦停車し、待機していたアプト式機関車が登場します。出発からアプト式というわけではないんですね。さてドッキングの様子を見たい乗客がぞろぞろ降りてきて、その様子をスマフォ片手に目を輝かして見守ります。ドッキングの瞬間を見届け、再び車内に戻りますと、アプト式機関車は、歯車の噛み合わせを利用して車両を押しながら、急勾配を登っていくのです。車窓から望む湖上駅の景、ダム湖などの景観が素晴らしく、また、有名な秘境駅など見所も満載で、二時間も乗っていたのにぜんぜん飽きない。車両も小さくてかわいいし、車掌さんも気さくでなんでも質問に応えてくれるし、運転席の近くに座れたので、運転の様子もばっちり堪能できました。あー楽しかった。なんとなく鉄道オタクの気持ちが理解できたような気がしました。

【2017年10月】 《リクオ》
法隆寺に行ってきました。法隆寺は607年ごろ聖徳太子が建立し、聖徳太子の死後一度全焼しています。600年代後半に現在の場所(奈良県生駒市斑鳩町)に再建されましたが、誰が再建したのかはわかっていません。その後、大講堂を焼失したり、豊臣秀頼や徳川綱吉の生母などの尽力で何度かの修繕があり、昭和の大修理を経て、五重塔や金堂、回廊のある西院伽藍は、古代から現代までそのままの形で残っている世界最古の建物群です。なんと1300年~1400年以上も前の建物ということになります。1993年にユネスコの世界遺産にも登録されました。金堂の扉や、五重塔の心柱は、聖徳太子が建てた創建法隆寺の材木を転用しているといわれます。飛鳥時代の建築様式で、材木はヒノキ、樹齢1000年のものを使っているそうですから、私が触ってきたあの回廊の柱は、2300年前のヒノキということになります。法隆寺は周囲を塀で囲まれているわけですが、その塀の壁はなんと土壁なんです。ですから、触ればボロボロと土が落ちてきます。それで長年に渡り風雨に耐えてきたのですからすごい。釘が錆びて折れたりしないことも、回廊の支柱などの土台がまったく揺るがないことにも驚きますが、細部が丁寧に仕上げてあり、とにかく当時の大工さんたちの建築技術の凄さに驚かされます。西院伽藍は法隆寺の敷地内にあるのですが、やはりここが法隆寺のメインと言えるでしょう。金堂には釈迦如来像など御本尊があります。金堂に隣接された五重塔は迫力のある大変美しい建物で、近くで見ると圧倒されます。どの建物も遠くから眺めても近くで見ても歪みなどが全然ない。まったく信じられません。ちなみに五重塔の下にはお釈迦様の骨を収めたといわれる舎利容器が埋められています。 金堂の中に入ると本尊の釈迦如来像が観れるのですが、これがすごくいい。仏像も時代によって姿形が変わるのですが、飛鳥時代のセンスにはなんというか独特なシンプルさがあって、後世の仏像より清廉な感じがするのです。法隆寺の宝物は、いやこの建物自体が、古代の仏教の様子を伝える貴重な資料なんだそうです。 法隆寺を堪能したので今度は周辺を散策することにしました。JR法隆寺駅のそばに、レンタル自転車の店があり、借りて法隆寺の土壁の外側をぐるっと回ってみます。法隆寺周辺の町並みは実にすばらしく、景色は最高、他にも聖徳太子所縁の寺がいくつかあるし、ずっと散策していたいと思うほどです。法隆寺から250メートルほどの所に、藤の木古墳と呼ばれる古墳があるのですが、そこがまた大変ロマンティック。古墳は、身分の高い人を葬った古代のお墓なのですが、古墳の中の墓室が未盗掘の状態で発見されたため、世界的にも貴重な古墳なのです。藤の木古墳はそんなに大きくない円墳なので、天皇陵ではないとされています。では、誰が眠っていたかというと、なんと、聖徳太子の叔父さんらしいのです。政争に巻き込まれ、蘇我馬子に殺された不遇な皇子でした。調査をし、1400年ぶりに石棺を開けてみると、装備品や、宝物の他に、骨になった遺体が発見されたわけですが、詳しく調査をすると実は遺体は二体納めてあることがわかりました。それがなんと二人とも男性なんです。聖徳太子の叔父さんともう一体の人物の関係は? いろいろ妄想が膨らみますが、おもわず古代のロマンを感じ、自転車から降りて、円墳の前にしばし佇んでしまいました。

【2017年9月】 《近藤房之助》
遠い昔、本名、実名は容易く人に教えたり気軽に呼ばせたりするものではありませんでした。市井の人々は本名など無かったでしょうから、ここでは貴族など身分の高い人たちの話になります。彼らにとっては実名を明かすという行為は自分のすべてを晒すのに等しい極めて重大なことだったようです。とくに女性は記録に実名が残ることも稀でした。歴史の教科書などで系図が出てくると、女性の名前は「女」としか書かれていなかったりします。もちろん名前が無かったわけではありません。女性は親兄弟以外は実名を知らないというのが普通だったようです。源氏物語という文学作品をご存知だと思いますが、作者の紫式部の実名はわかっていません。源氏物語の主役級に「紫の上」という美しい女性が登場しますが、紫式部は、「紫」の物語を書いた人なので「紫式部」と呼ばれました。彼女は、今でいう皇居で「女房」という職について働いていました。高貴な身分の人の世話係です。最初は「藤式部」と呼ばれていたようです。これは女房名といって、宮仕えする場合につけられるあだ名みたいなものです。藤原為時さんの娘で、親の身分が式部大丞だったから藤式部です。本名は「藤原香子」らしいのですが、確認されていません。清少納言は清原さんの娘で、近親者に小納言という身分の人がいたから「清少納言」と呼ばれました。やはり実名はわかっていません。男性は公式な文章や和歌を詠んだ際の署名が残っているので実名がわかる場合が多いのですが、女性はほとんど伝わっていないのです。平安貴族の未婚女性は、相手に本名を知られてしまえば、その人と結婚しなければなりませんでした。大変です。それどころか顔を見られてしまったらその相手と結婚しなければならなかったようです。もちろん顔を見せても問題のない相手もいただろうし、いろんな状況で特別な場合もあったのでしょうが、身分の高い女性は昼間は部屋に籠り、滅多に顔を見せることもなかったようです。名前の話に戻ります。貴族や武士などがもし公の場で誰かに実名で呼ばれたりした場合、それは侮辱を意味しました。大河ドラマや時代劇を観ていると「信長様……家康殿がお越しになりました」とか「徳川殿、織田殿」などと呼びかける役者のセリフを聞くことがありますが、ありえません。例えば本能寺で死ぬ直前の織田信長は右大臣でしたから「右府様」などと呼ばれていたはずです。家康は三河守(みかわのかみ)という役職名でしたから「三河殿」だったでしょう。家来など身内は「殿」とか「屋形さま」と呼んだはずです。当時はこのような通称で呼ばれるのが普通で、もしかして一般庶民は「家康」「信長」という実名を知らなかったかもしれません。芸名のあるミュージシャンも、実名で呼ばれるのを嫌う人がいますが、似たような感覚でしょうかね。余談ですが水商売の女性が源氏名を付けるのは、源氏物語に登場する女性たちの雅な愛称に由来します。

【2017年8月】 《A.K.I BLUES BAND》
毎年お盆に帰省すると、まだ幼い甥っ子姪っ子たちが実家に集まってきて大変賑やかになります。昼飯時になると大量に茹でられたソーメンが出たりして、皆で競争のようにして箸を使うのですが、子どもたちはすぐに飽きて椀の麺つゆの中に食べかけを残したまま遊びの続きに復帰してしまいます。母が箸を投げ出した甥っ子の一人に「もういいの?」ときくと、彼はなにかおもちゃをいじくり回しながら、「もう大丈夫」と答えています。
ところでわたしは帰省すると、不肖の息子の唯一の親孝行で、母の包丁を研いでやるのが恒例なのですが、ソーメンのあとにスイカが出た際、ふと母に「包丁大丈夫?」とききました。研いでやった包丁の切れ味は問題ないか、という意味できいたわけです。すると母は急に怪訝な顔になって、「その大丈夫って言い方、何とかならないの」というのです。え? と思いました。母はつまり「大丈夫」という言葉の使い方が変だと言ったのです。さっきの甥っ子の「もう大丈夫」という使い方もおかしい、気になる、というわけです。なるほど、と思い、高円寺に帰ってきてからみんなの「大丈夫」に注意してみました。すると最近は若い人を中心にノーサンキューの意味で使っていることに気がつきました。例えばスーパーで買い物をすると、若い店員さんが、「レジ袋は大丈夫ですか?」ときいてきたりします。皆、「要らない」という意味で「大丈夫です」と答えています。むしろ「大丈夫です」といわなければ、聞き返されてしまうほどです。 「包丁は大丈夫?」はノーサンキューの意味で使っているわけではないので、使い方は間違っていないと思ったのですが、実は「大丈夫」という言葉は本来「立派な男」という意味だそうです。大丈夫=頼りになる、任せられる→問題ない、というわけです。例えば、「あいつに任せておけば大丈夫だ」「すっかり回復しました。もう大丈夫です」「あの件は大丈夫か」などの文脈で使うのが正しい。しかし最近は「ムリ」「要りません」などの否定の言葉を和らげるために「大丈夫」を使っているようです。ちょっと冷たい言い方、突き放したような言い方に思うのでしょう。ですから甥っ子も母に気を使ってそう言ったのです。けれども母はこの『間違った』使いかたが気になってしかたがないようです。
しかし言葉というものは長い年月を経て変わっていくものです。平安、鎌倉時代に使われていた言葉が現代では真逆の意味になっていることや、まったく違う意味になっている例がたくさんあります。「ありがたい」などは本来「有り難し」で、存在が稀である、という意味だったのですが、現代では感謝を表す言葉に変わっています。「大丈夫」という言葉は、まさに今、使われかた、意味が変わろうとしている歴史的な転換期にあるようです。

【2017年7月】 《岸倫仔》
「トム・ソーヤの冒険」という児童小説を知ってますか。1840年代頃のアメリカの南部、ミシシッピ川沿いに住む男の子たちの日常と冒険を描いた名作です。1840年頃といえば、黒人奴隷解放の動きが芽生えた頃でしょうか。日本は江戸時代末期で、異国船が現れ、ペリーなどが開国を迫っていた頃です。アニメ化され、子供のころ放映されていた記憶がありますので、知ってる方も多いと思います。しかし、トム・ソーヤの冒険には、続編があるのを知っている人は少ないのではないでしょうか。トム・ソーヤの物語を知ってる人はわかると思いますか、トム・ソーヤの仲間に「宿無しのハック」という少年が出てきます。父親がとんでもないならず者の、いわゆる浮浪児ですが、育ちの良いトム・ソーヤの無二の仲間です。トム・ソーヤとハックたちは物語の最後、巨額の財宝を手に入れます。その後、ハックのお金を預かっている判事の計らいで、ハックはきちんとした金持ちの家庭に預けられ、浮浪児の生活から抜け出し、「正しい」教育を受けることになります。そのハックがいろいろあって家出し、黒人の逃亡奴隷であるジムと出会い、二人、筏でミシシッピ川を下る冒険を描いたのが続編「ハックルベリー・フィンの冒険」です。 この物語はとても子供向けとは思えない内容で、ニガーなどの差別用語が頻繁に出てくるため発禁にもなったことがあるそうです。当時、奴隷の逃亡を助けるなどということは、社会的にも宗教的にも重罪で、黒人は生物学的に白人より劣っているとされていた時代ですから、ハックの冒険はお遊びではありません。ノーベル賞作家のヘミングウェイをして「この作品以前に、アメリカ文学とアメリカの作家は存在しなかった。この作品以降に、これに匹敵する作品は存在しない」と言わしめた超名作です。当時の白人社会に対する皮肉や批判、川沿いの風景、自然、一般の人々の暮らしなど、アメリカという国を理解するのに最高の小説です。第一、面白くて面白くて、ずっとベージをめくり続けられます。上下巻の長い小説なのですが、一晩で読めるかも、と思ったほどです。様々な事件を切り抜けながら黒人奴隷のジムを逃してやろうと悪戦苦闘して旅をするハック少年。現代と大きく違う当時の常識や、白人たちと黒人奴隷たちのリアルな関係、人々の娯楽、迷信、のちに黒人音楽が生まれることになる土壌です。ブルースの匂いがプンプンしてきます。当時、南部では黒人奴隷は一人につき一人所有し、まるで車のように扱われていました。商品として売買され、奴隷法によって管理されていました。人間とは見なされていなかったのです。もし逃亡すれば、追われ、ひどいめに合わされました。殺されてもしかたがないくらいだったのです。南北戦争以前の南部アメリカ。後のリンカーンの奴隷解放宣言がいかにすごい出来事だったか、よくわかります。黒人に対する差別が未だ根強く消えない理由もよくわかったし、この物語に登場する、貧しい、ならず者を含めた白人たちの子孫が、トランプ大統領を支持したと言われるのもなんとなくわかる気がします。歴史を詳細に知るには当時の小説を読むのが一番だと身にしみました。

【2017年6月】 《町田康》

天皇陛下が退位され、年号が変わるそうです。子供の頃、祖父母が明治生まれと聞いてずいぶん昔の人なんだと思ったものですが、今後新しい年号に生まれる人たちは、私たちが昭和生まれだなんて聞いて一体どう思うんでしょう。私が子供の頃は江戸時代に生まれた泉重千代さんというギネス級のご長寿がまだご存命で、江戸時代がさほど遠い昔でもない気がしたものです。 しかし新年号以降の時代に生まれる子どもたちには江戸時代とか明治時代なんてきっと想像もつかない昔に思うのでしょう。ちなみに重千代さんはテレビのレポーターに好みの女性のタイプを聞かれ「年上がいいのう」と答えたそうです。ずいぶん機知に富んだ人だったんですね。 ところで、天皇陛下をはじめ皇族の方々は苗字がないって知っていましたか。例えば次の天皇である皇太子殿下は昭和時代「浩宮さま」と呼ばれていましたが、実名は「徳仁」です。「浩宮徳仁親王」ですが、「浩宮」は称号で苗字ではありません。今は「皇太子徳仁親王」で、天皇になれば「今上天皇・徳仁」ということになります。かわいすぎるプリンセスとして人気のある佳子さまは、便宜上「秋篠宮佳子さま」と呼ばれたりしますが、「秋篠宮」は父親の称号であって、佳子さまは苗字を持たないのです。正式な呼び名は「佳子内親王」になります。 苗字がないってなんだか妙な感じがしますが、そもそも人間に付けられる苗字や名前、愛称って、よく考えたら変ですよね。一度その名がつけば一生その名前なわけです。愛称やあだ名も、定着すれば、環境を変えない限りずっと付きまといます。付けられた名を周囲に認知され呼ばれているうちに名前とキャラが一致してきたります。数多のヒロシさんは、なんとなくヒロシって顔をしていますもんね。タモリはタモリだし。さんまはさんまだし。 上田正樹とサウス・トゥ・サウスのドラマー、正木五朗さんは本物のグルーブを持つ素晴らしいドラマーとして有名ですが、いかにも「正木五朗」という外見です。正木って感じだし、五朗って感じがします。名前とキャラクターが完全に一致していてかっこいい。けれど実は「正木五朗」は芸名で、まったくキャラと違う本名なんです。びっくりしました。 ライブのご予約をいただくと、読み方のわからない珍しい苗字の方がときどきいらっしゃいます。興味が湧いてググってみると、なるほど、と感嘆させられることもしばしば。多分、子どもの頃から苗字のことをよく聞かれ、話題になるのにも慣れていらっしゃることでしょう。平凡な名前より注目される機会が多いわけです。そう思うと、名前って人生に深い影響を与える特別な「記号」なのかもしれませんね。

【2017年5月】 《mickey-T》
ゴルフ、テニス、野球、サッカーなど日本人メジャー選手、そして羽生選手の奇跡的な世界選手権金メダル等、世界的な活躍をする日本人を観て誇らしい気持ちです。私が子供のころにはこんな人たちはいませんでした。世界の壁は厚いもんだ、体力が、身体能力が違うんだから仕方ない、と思ったものです。二十二年前、近鉄から大リーグに渡った野茂英雄投手がバッタバッタと三振を取る姿をみたときは本当に興奮したものです。とうとう日本人も世界で名を成す時代がきたんだ、と思いました。その後のイチロー選手などの活躍はいうに及ばず、今ではごくあたりまえのように、世界トップレベルの日本人たちのニュースを見る時代になりました。
ところで1974年、世界的にはまったく無名だった日本のジャズグループが、日本という国のこともよく知らない人々が暮らすヨーロッパ各地でツアーを敢行し各地で旋風を巻き起こした、という事実をご存知でしょうか。西ドイツのジャズフェスティバルでは、‪一時‬間に及ぶスタンディングオベーションを受ける等、ヨーロッパで伝説になったグループです。伝説などと言われていますが、実は、今も日本でそれぞれ活躍する、現役バリバリの人たち。そうです……山下洋輔、坂田明、森山威男という3人の侍JAPAN、「山下洋輔トリオ」です。
先日、山下洋輔トリオのサックス奏者だった、坂田明さんがJIROKICHIに久しぶりで出演してくれた際、いろいろ話を聞くことができました。どこへ行っても、とにかく凄い反響だったそうです。演奏が終わると、みな、足を踏み鳴らし、アンコールを求めてきたそうです。久しぶりにヨーロッパに行って演奏したときは、伝説のサカタが来る、と多くのファンが駆けつけたそうです。「坂田さんたちは日本人の誇りですね、日本も捨てたものじゃない」というと、坂田さんはヒゲを斜めにし、片眉を釣り上げ、田中角栄みたいな声で、俺たちがヨーロッパに乗り込んだときは、日本はなにもしてくれなかった。日本人が偉いわけじゃなくて、俺たちが頑張ったんだ。今、海外で活躍するスポーツ選手だって、奴らが頑張ったから凄いんだぞ、といいました。まったくその通りだと思いました。別に日本人が偉いわけじゃないんです。「彼ら」が凄い。
ところで、坂田さんは、広島県呉市出身で、広島の水産系の大学を出、3年の約束で上京したそうです。呉市といえば、映画「仁義なき戦い」の舞台です。坂田さんが学生の頃といえば、映画ではない本当のヤクザがピストルを持って走り回る、抗争の真っ最中だったはずです。上京前のことです。「ダンプカーの運転手を四年やってたんだよ」というエピソードにはびっくりしました。当時の呉市ですから、建設業系は極めてグレーな職業だったことでしょう。あの強烈なサックスは、やはり……。きっと根性が違うんですね。因みに1969年に上京し、1972年に山下洋輔トリオに入ったころ、実家では坂田さんが帰らないことが問題になり、親族会議が開かれたそうです。結局、ヨーロッパで伝説となり、フリージャズ界のスター、世界のサカタになりました。タレントとしても活躍し、ミジンコ研究家としても有名です。そーいえば坂田さんが出演していた腕時計のCMとか、懐かしいですね。

【2017年4月】 《KOTEZ 》
奈良の法隆寺をご存知でしょうか。修学旅行で行ったことのある人も多いかと思います。法隆寺は奈良県の斑鳩町に1300年以上も前に建てられ、朽ち果てずに現在まで残った奇跡的なお寺です。世界最古、古代の寺の姿を伝える唯一の建築物だそうです。聖徳太子の時代に建てられたものが焼失し、現在の場所に移転し、天智天皇のころに再建されたんだそうです。日本書紀に焼失移転の記述があり、その真偽をめぐっては論争があったようですが、昭和の大工事の際、解体したことによって、記述が正しいことが確認されました。 とにかく飛鳥時代の建築技術を想像してみればいかに凄い建物かがわかると思います。まず、木材は樹齢1000年以上の檜(ひのき)を使っています。樹齢1000年の木を使えば建物は1000年持つのだそうです。しかし現在の日本ではもう手に入らない。昭和の修理の際は台湾に買い付けにいったのだそうです。使っている釘もすごい。当時の製鉄技術ですから、釘一本造るにも、大変な労力と時間がかかったと思います。当時の釘は1300年経った今でも十分に使えるそうです。檜(ひのき)などの材料は近くの山から調達したのでしょうが、切って運んでくるだけで相当な苦労があったはずです。電ノコどころか、普通のノコギリもカンナもありません。手斧で切り出し、大木を割り、ノミや小刀で切り出し、槍ガンナという道具を使って丁寧に仕上げた跡があるそうです。組み上げるにしても設計図などありませんから、大工の棟梁は構造力学などを感覚で理解し、芸術的なセンスを併せ持ち、しかも職人たちから尊敬される大人物だったのでしょう。そうでなければ職人たちを統率することなど出来なかったはずです。どうやってあのように美しい建物が造れたか、それは今となってはわかりません。初めは大陸から技術者が指導に来たのでしょうが、大工たちは日々創意工夫しスキルをアップしていった一種の職能集団だったのでしょう。そしてその動力はまだ輸入されたばかりの仏教への厚い信仰、聖徳太子に対する深い尊敬の念だったのではないでしょうか。世界最古の建造物群のうち、とくに五重塔が有名ですが、あれ、どうしてああいう形の建物になっているかご存知でしょうか。卒塔婆なんだそうです。卒塔婆とは、よく墓地の墓の裏側などに立てかけてあるギザギザっぽくカットされた、戒名などが書かれた細長い板のことです。卒塔婆は、元々は各地に散らばったお釈迦様の遺骨を納める仏塔でした。で、五重塔は木造の卒塔婆なのです。ですから、五重塔の心柱の下にはお釈迦様の骨とされる「舎利」が納められています。ところで、昭和の修理で五重塔を解体した際、見えない部分に職人たちの落書きがいくつか見つかったそうです。1300年前の落書きですよ。あー見てみたい。

【2017年3月】 《CHICKENSHACK 》
東アフリカのジャングルに類人猿のメスが一頭いました。彼女には娘が二頭いました。一頭はチンパンジーの祖先となり、もう一頭は我々人類の祖先となりました。600万年前、チンパンジーと分岐した人類の祖先は更に数種に別れ、北京原人やネアンデルタール人など原人に進化し大陸間を移動しはじめました。当時の原人たちは火を使い道具をつくる知的な存在でしたが、地球にとって、他の動物種と同じ程度しか生息していない取るに足りない動物でした。しかし20万年前、遺伝学的に私たちの直接の祖先であるホモ・サピエンスの登場によって、世界の生態系は大きく変わったのだそうです。ホモ・サピエンスは他の動物を圧倒しました。遺伝的な溝を持つ他の原人たちを徐々に滅亡に追い込み、マンモスやサーベルタイガーなど何千万年も地球に暮らしてきた動物を数百年という短期間で絶滅に追い込みながら、大陸を渡り歩き、やがて農耕を覚えて定住し、爆発的に増えていきました。 それにしても我々の祖先が一頭のメスザルで、しかもチンパンジーと兄弟だなんてなんか不思議な感じがしますね。チンパンジーはエレキギターを弾いてブルースを歌えませんし、文明社会も神という概念を作り上げることも出来ません。しかしホモ・サピエンスは、短期間で高度なテクノロジーを発展させ、とうとう動植物の遺伝子操作までするようになりました。 ところで、地球の温暖化によって北極の氷が解け、古代の未知のウイルスが次々と蘇っているんだそうです。恐いですね。そうした新しいウイルスや感染症を予防するために現在、様々な研究がなされているようです。驚いたのは、蚊(ネッタイシマカ)を媒介にして世界中に広がる危険なデング熱やマラリアなどのウイルスの蔓延を防ぐため、ウイルスを媒介する蚊を滅亡させようという実験が行なわれているんだそうです。特殊な遺伝子操作を施したオスの蚊を大量培養し、放出し、世界中に生息しているメスと交尾させ、交尾すればメスは幼虫を産むわけですが、その産まれた幼虫が育たないで死ぬ、という仕組みだそうです。ホモ・サピエンスは自分たちの種を守るため、ネッタイシマカを絶滅させようとしています。蚊がいなくなってデング熱が広がらないのはうれしいことですが、よく考えたら恐ろしいと思いました。もしかして将来、ホモ・サピエンスは自分たちで作り上げた技術によって絶滅することになるのかもしれませんね。

【2017年2月】 《ハッチハッチェルオーケストラ》

中央線沿いには寺の名称のついた駅がいくつかあります。吉祥寺、国分寺、西国分寺、そして高円寺。お店の場所がわからないといって、電話をかけてくるお客さまの中に、間違って吉祥寺にいるという人がたまにいますが、まあ、わからなくもないという気がします。さて高円寺という街の名称は、曹洞宗の寺院である「高円寺」に由来します。いまでも駅の南口、高円寺南四丁目に現存する立派なお寺です。1555年に開山されたという古い歴史を持っています。本尊は観音菩薩像で、室町期の作といわれる阿弥陀如来座像も安置されているそうです。
五代目の住職のときです。江戸幕府三代将軍の徳川家光が鷹狩りの休息のため寺に立ち寄りました。家光は徳川家康の孫で「生まれながらにして将軍である」と諸候に宣言した人です。家光は茶室で和尚の接待を受け、きっと和尚の人柄や知識などに感銘を受けたんでしょう、以来交流が生まれ、家光が遠出の際にはたびたび寄ったり、和尚が法話を聴かせるために江戸城に出向いたりもしていたようです。
あるとき、家光が和尚に褒美を与えようと願いを聞きました。しかし和尚は土地や金銭を望まず、お茶が好きなので茶の木を植えて欲しいと所望したそうです。家光は高潔な和尚に感銘し、さっそく宇治から茶の木を取り寄せ、寺に寄進したそうです。家光が休息した茶室の跡地が本堂の裏にいまでもあって「御殿山」という名称で残り、敷地内にはかつて家光の手植えの木もあったようです。将軍は余程高円寺を気に入っていたんですね。ちなみに三度火災で全焼しており、今の建物は昭和28年再建のものだそうです。貴重な古文書が消失してしまったそうですから、家光と和尚の書状のやり取りなどもあったのかも知れませんね。ところで、当時、高円寺は「小沢村」という村名だったそうです。家光が命じて、小沢村は「高円寺村」に改称され、以来、高円寺は高円寺という名称になりました。もし家光が高円寺と関わらなかったら、「高円寺JIROKICHI」は「小沢JIROKICHI」と呼ばれ、JR高円寺駅はJR小沢駅だったかも知れませんね。「高円寺」になって良かったなと思いました。家光さんありがとう。

201701【2017年1月】 《Voice from LA…ANIYA Birthday Live in 東京》

皆様のお陰でJIROKICHIは開店43年目を迎えます。2017年もどうかよろしくお願い致します。しかし、どんな年になるのでしょうか。現代は5年先の予測も困難な時代と言われています。インターネット時代はいよいよ成熟期にさしかかり、政治や経済システムの在り方は世界的に変革の時期に来ているようにも見えます。音楽業界は、見てきたように既に大きく変わりました。CDが姿を消しつつありレコードが見直されている昨今です。テレビや新聞がメディアの中心だった時代はとっくに終わって、かつては情報を受け取るのみだった一般大衆は、今や、インターネットを通じて自ら情報を発信する時代です。バイオテクノロジーの発達は目覚ましく、近い将来、人間は150歳くらいまで寿命が延びるそうです。また、人工知能の技術が凄いことになっていて、ちょと前よりロボットの技術が飛躍的に進歩しているそうです。将来、重労働、危険な業務、介護などはみんなロボットが引き受けることになるそうですが、もしかしたら、コンビニや、ファミレス、チェーン店の居酒屋などもそうなるかもしれません。しかし居酒屋でロボットに酒とつまみを出されるってなんか味気ないですよね。まあ「慣れ」なのかも知れませんが、ある人気の寿司チェーン店に行ったとき、寿司マシーンが握った寿司が流れて来て食ったわけです……ほら、やっぱ美味しくない。寿司だけは、不衛生だなんて言わず、人の手で握って欲しいもんです。そうだ、握ると言えば「おにぎり」です。あれ、ラップで包みながら握ったのと、直に手で握ったのとじゃ味が全然違うんです。不思議ですよね。料理は心、心がこもっているから美味しいんだとか、魂が入っているからだとか、そんな古くさいことを言う気はありませんが、「美味しいものを食べさせてあげたい」という気持ちが美味しいものを作らせる動力だ、ということは実感として経験として間違いありません。TPPへの加入で、海外からより安い食材が入ってくる時代になります。輸出する側にとっては、自国の国民が食べるわけではないし、気持ちなんてない食材ばかりを売りつけてくることになるでしょう。どうする日本人。