【2015年12月】
【2015年11月】
【2015年10月】
【2015年9月】
【2015年8月】
【2015年7月】
【2015年6月】
【2015年5月】
【2015年4月】
【2015年3月】
【2015年2月】
【2015年1月】

【2015年12月】 《上田正樹》
早いもので今年も終わりが近づいております。振り返れば、様々な事件がありました。安保法案成立、大きな災害の爪痕、悲しい事件…。冬は大雪だ、なんて声も聞え、今から戦々恐々としております。来年はもう少し穏やかな一年になればいいですね。 関係ないのですが、先日、隣町の中野をぶらぶらしていました。歩き疲れ、一杯飲もうかと思い、安くて雰囲気のいい「ブリック」という知る人ぞ知る老舗のバーに入りました。落ち着くんです。本を開いてのんびりウイスキーをなめていました。「陰翳礼賛」という谷崎潤一郎のエッセイです。しばらく経って、ふと周りを見るとカウンターは満席。老若男女、大人の社交場を満喫しています。空いているのは私の狭い隣だけでした。案内されて横に座ったのは70歳を超えた品のいいご老人。ご老人、隣に座るとまだ尻もつけぬうちに話しかけてきます。お、地元のおじいちゃんかな、面白い話が聞けるかも知れないと、本を閉じました。耳を傾けていると、どうやら「陰翳礼賛」が目に留まったようです。「陰翳礼賛」の内容について会話を深めてわかったのですが、ご老人、なんと本まで出している数寄屋建築専門の建築士だったのです。数寄屋建築といえば、ほら、茶室ですよ。結構な御点前でございます、と茶碗をクルクル回すやつ。あの建物です。つまり古き良き日本の建築を熟知したその道の匠だったのです。ググって見ると名前が出ます。ありゃあ、偉い人と隣り合わせになったものだ、と、様々な話を聞いているうちに、おごってくれるし、ご自分が住んでいるという数寄屋建築のご自宅に遊びに来いなどといいます。畳の状態で住み心地が決まるんだそうです。すぐに畳が駄目になる家はつまり体にも悪いというわけです。もっと話を聞きたい。数寄屋建築……。茶室……。ああ興味ある。バーで知り合った人の家に、いきなり訊ねて行くなんて気が引けるのですが、これもきっと何かの縁だと思うのです。しかし、ご老人でしたし、あんた誰?ってなりそうで怖い。というわけでなかなか決心が付かず冬を迎えようとしています。

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【2015年11月】 《NAOH》
最近、高円寺の街は外国人の方が増えた気がします。街を歩いていても、スーパーで買い物をしていても実感することです。とくに東南アジア系の方々、中国、台湾系の人たち。日本の学生服を着ているブラック系の子とか。留学生だけでなく根付いて生活している人も多いようです。最近ではコンビニやスーパーのレジや飲食の店員に彼らが働いていても少しも珍しくはなくなりました。JIROKICHIのお客さんにもライブを聴きにくる外国の方が増えたような気がします。三十年~二十数年前の話です。当時は不良外国人のグループがいて、ライブには来ないで深夜現れ、大騒ぎをしたり、お金をごまかそうとしたり、日本語を知らないふりをしたり、難儀したものです。毎日のように来て「カレーの作り方を教える」などと露骨なナンパの仕方で女の子に声をかけまくるやつとか。ボトル棚から酒を持っていってしまうやつとか。店の中に小便を引っ掛けて帰るのもいました。看板を割られ、あの温厚で知られるPA・ワオさんが、キレて追いかけていって飛び蹴りを繰り出したこともありました。(外しましたけど笑)はっきりいって彼らは日本を馬鹿にしていました。低く見ていたはずです。体が大きいし、暴れたりしたらやだなと思ったものです。最近はそんな不良外国人は影を潜め、みんな日本という国に敬意を持ってくれている気がします。今、日本という国の印象は外国の方から見てどんな感じなのでしょう。良い国だと思ってくれていたらうれしいですね。

JIROKICHI_schedule_Oct2015_omote【2015年10月】 《モアリズム》
被害に遭ってしまいました。そうです、台風による水害、店内の浸水です。鬼怒川の氾濫が心配されていたころ、私たちは別の心配を抱えていました。店、だいじょうぶだろうか……。おそるおそる店に行くと、とりあえず何ともありません。リハーサルが終わり、大雨の中お客さんも来てくれて、大丈夫そうだと様子を見ていましたが果たして……。しかし、やっぱり来てしまいました。じわりじわりと床下から浸水してきます。外から入ってくるのではないのです。壁から染みだしてくるのです。時間が経つととうとうお客さんの足下までびしゃびしゃになってしまい、コレは無理だと、ライブは中止になってしまいました。深夜には魚が放てるほど水位が上がってしまい、もうなす術もなかったのです。翌日、昼前に来ると業者の方たちと作業開始。業者さんだし、何かポンプアップできる秘密兵器でもあるのかと思えば、彼らも手作業なんです。仕方ありません。なんとかライブをしたいので必死で水をくみ出しましたが……。まったく水は引きません。結局翌日も中止。まいりました。深夜までかかって水をくみ出すと、ようやく引いてきました。そしてその翌日の昼、なんとか復旧させたわけですが、もう大変でした。根本的な解決が難しく、あれほどの大雨になるとどうしようもなく、今後も心配を抱える状態ですが、今回は水の出るポイントが一つ特定できたので、次回浸水した場合は、別の対策を考えられるかも知れません。皆様に心配していただき、ミュージシャンの皆様やお客さまから励ましのメールをいただいたことがうれしかったです。そして振替ライブを引き受けてくれたライブバー、阿佐ヶ谷「SOUL玉TOKYO」の矢野間さん、本当にありがとうございました。中止でご迷惑をかけたミュージシャンのみなさま、お客さま、本当に申し訳ありませんでした。


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【2015年9月】 《仙波清彦》
先日とあるミュージシャンと一緒に飲んでいたとき、花伝書という古い書物の話になりました。花伝書(風姿花伝)とは「能」を大成した世阿弥によって室町時代に書かれた一子相伝の「能」の芸術論、所謂秘伝書です。秘伝書といっても現在は普通に出版され広く読まれていますが、「秘すれば花」というわけで、明治時代に紹介されるまでは本当に秘伝書だったわけです。その、一緒に飲んでいた某ミュージシャンが赤い顔を上気させ、「芸能に携わるものは絶対読むべきだ」というので、翌日しかたなく近所の古本屋を回って手に入れたのです。で、さっそく注釈を頼りに頑張って読み始めたわけですが……読みづらい……ああ……読みづらい。でもなんとか読み進めることができました。で、内容ですが、なんというかすごく良かったのです。 例えば、観客を感動させる力を「花」と表現し、少年は若く美しい声と姿を持っているから時にはベテランに勝ったりもするが,それはあくまで「時分の花」で、奥義である「まことの花」は心の工夫公案から生まれる、とか。とくに良いと思った箇所は、目利きのある観客、所謂玄人に絶賛される名人といえども、あまり「能」の芸術性について解ってない一般庶民を喜ばせることが出来ないようでは「まことの花」ではない、「まことの花」を得た人は玄人も唸らせ、同時に素人目にも感動を与えることが出来るものだ、といういうようなことが書いてありました。なるほど……。よく使われる言葉ですが「ベテランの味」つまり枯れた味わいというのは、全盛期に花を極めてこそ、であるそうです。凄い! 深い! これ、ステージに立つ人、人前に立って表現をする人、音楽、芸術に携わる人、すべてに当てはまるのではないでしょうか。

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【2015年8月】 《峰さんと小島さん》

必ず死ぬわけです。みんな、誰もが、それを知っていながら、しかし知らないかのように生きています。でもいずれみんな死ぬわけです。わかっているんです。でも身近な人に急に居なくなられるのは本当に寂しいことです。服田洋一郎(はったよういちろう)さんはブルース・ハウス・ブルースバンド~ブレイクダウンで、入道さん(ボーカル・ブルースハープ)近藤房之助さん(ボーカル・ギター)らと共に、70年代80年代を駆け抜け、ロックミュージシャンやパンクの人たちにまで影響を与えました。日本のブルースシーンにおいてずっと重要な存在だったのです。4月20日、伝説的なライブを人々の記憶に残して往ってしまいました。強力な、とにかく強力な、鳥肌が立つようなギターを弾く人でした。
石田長生(いしだおさむ)さんも記憶に残る強力な存在でした。ジャズ、リズム&ブルース、ソウルなど黒人音楽を吸収し、ソーバット・レヴュー、ボイス&リズム、BAHOなどで活躍し、熱いプレイで広く支持を集め、多くの人に影響を与えたスーパーギタリストだったのです。復帰を待っていたのに、7月8日、私たちを残し往ってしまいました。ジロキチではアコギ1本で魂のこもった歌を聴かせ、毎回聴衆を圧倒しました。…寂しい。そして信じられないことですが、もう彼らがジロキチのステージに立つことは無いのです。合掌。

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【2015年7月】 《有山じゅんじ》

今年はなかなか梅雨が明けないそうです。エルニーニョ現象の影響だそうです。エルニーニョってよく耳にするけれど、つまり何? というわけで、調べてみました。それは南米はペルーの遠い海の話でした。ペルー沖の海水が原因不明の理由で上昇するんだそうです。海水の温度が高くなると、蒸発する水分の量が通常より増えるというのは何となくわかります。その結果気圧が下がり、気圧が下がるとそこに風が吹き込むため、海水の流れに影響が及びます。結果、暖流が東部にも流れ込み、そこでも気圧が上がり…というふうに世界中に影響が出るんだそうです。とくに漁業には大きな影響が出るようです。日本については巡り巡って影響が及び、梅雨が長引いたり、冷夏になったり,暖冬になったりするんだそうです。てことは、今年は涼しい夏なのか、と思ったら大間違い。じつはエルニーニョって、どう作用するかはっきり予測出来ないんだそうです。今年の夏はどうなるんでしょうか。とにかく早く梅雨が明けて欲しい。しかも冷夏だったら最高ですね。因みにエルニーニョというのはスペイン語で「男の子」あるいは「イエス・キリスト」のことだそうです。

jirokichi6omote【2015年6月】 《blues.the-butcher-590213》
音楽に興味を持ち始めた頃といえば、坊主頭の中学生でした。レコードプレイヤー付きのステレオコンポを買ってもらったんです。まだ市場にCDというメディアはありませんでした。レコードです。そして貸し借りや、お気に入りの編集などはカセットテープが主でした。中高校生にレコードは高いので、吟味して吟味して買う。ジャケットを満足げに眺める。自慢されると、自慢するために収集したくなる。レコード店に通うから店員と仲良くなって色々教えてもらう。評論を読む。勧められたものを買う。買ったレコードは傷つけたくないから、カセットテープに録音してから聴いたものです。時は流れ、やがてCDが中心になり、MDなんてのが出回ったと思ったら、今やカセットはもちろんCD,MDなど固形のメディアは音楽を聴くということにおいて、その役割をすっかり終えてしまいました。
レコード。当時は考えてもいませんでしたが、あらためてレコードで音楽を聴くと、豊かな音の広がりと優しい耳心地に感動したりする。今の若い子たちにコレが聞き分けられるのかな、とふと思ったりします。レコードからCDに移行した頃は、便利になったけど……という意見がミュージシャンや愛好家には強くあり、ジロキチのカウンターでもそういう会話をよく耳にしました。更にコンパクトなMDが出たときにはもっと否定的な意見が出ていましたっけ。音の広がりもコンパクトになってしまったんです。きっと、昔のリスナーは音に対するこだわりがより強かったというより、もっと豊な、優しい音に慣れ親しんでいたのです。しかし、新しくリリースされる音源の音質が悪いという議論は間違っているかも知れません。今の時代、今の音楽には合っているのでしょう。でも、イヤフォンやヘッドフォンで聴くデータファイル化された音楽って何となく疲れませんか。少し鋭利すぎて耐えられず耳が疲れを訴える。なんだか暖かみが足りない気がするんですよね。年齢のせいかも知れませんけど。
早世した天才トランぺッター、クリフォード・ブラウンの「Clifford Brown With Strings 」という名盤があります。これをレコードで大音量で聴いたときの感動は忘れません。CDで聴くのとまるで別物なんです。ストリングスの響きが骨に響き、体に沁みる。きっと聴覚上認識できない、聴こえていない音域の「響き」というのがあって、きっとそれが生命の仕組みの何かに共鳴するんでしょうね。レコードというメディアをもう一度見直してみませんか? いや、聴き直して…。

JIROKICHI_schedule_May2015_omote【2015年5月】 《鈴木亜紀》
梅が咲いて桜が散って、三寒四温。そして早いもので、あっという間に五月です。昨年から冷蔵庫にずっと眠っていたスルメをどうしようかと考えていました。炙って食べるのが定番でしょうが、芸がない。昔、だし汁につけておいたものを焼いてマヨネーズで出す、というのをメニューにしていたこともあったので、結構美味しいし、それでもいいかなと思っていたのです。でもなあ…他に、もっとグッと来るような調理方法ないかな…と検索していると、えっ、という見出しがあったので閲覧したわけです。それは,「水に一晩つけてスルメを生のイカに戻す」というもの。生に戻すのは無理でしょ、と思う刹那、目に飛び込んだ掲載写真を見てビックリ。マジ、生イカ。マジで生イカなんですよ。だし汁につけたときは、写真のような魚屋の生っぽくは戻らなかったので、驚いてしまいました。婆さんみたいに、へえ、と声が出てしまいました。重曹(蒸しパンとかふっくらさせるのに使うやつ)を大さじ一杯入れるんです。それだけがコツだそうです…。見たいじゃないですか、それ。どうしても見たいじゃないですか。で、冷蔵庫に手を突っ込んで奥から取り出した立派なのを三枚、バットに水を張ってつけ込んでみました。結果は…ごめんなさい。感動できることを期待していたのですが…イマイチな感じ。重曹が足らなかったようです。なんかすみません。でもコレ、本当みたいなのでもう一度挑戦してみたいと思います。因みにスルメのことをアタリメと言ったりしますよね。それ、昔の博打のアレで、擦るじゃマズいので、「当たり」ということみたいですよ。

JIROKICHI_schedule_Apr2015_omote【2015年4月】 《KOTEZ》
『ご苦労様です』という言葉があります。目上の人が部下などに対して使う言葉なので、本来、年下の人が年上の人に使ったりしないものなのです。私たちのような一般社会とは少しズれた仕事をしていると、周囲にもそういう常識にこだわらない人が多いので、私も何も考えずに「ご苦労様です」などと使ってしまうことがあります。「了解しました」とか。まあ元々、ジロキチのマスターだった故・荒井誠がヒッピーだったわけですし、(詳しくは40周年記念本『ジロキチ・オン・マイ・マインド』をご覧ください)ミュージシャンはやくざな人ばかりでしたから、一般的常識的な礼儀、上下関係とか気にしない世界。それはそれで居心地がいいし、若い頃からそういう環境だったので仕方がないのですが…。
日本語の間違った使い方は身近に多く例があるようです。例えば「後で後悔するぞ」などと言ったり聞いたりしますよね。でも間違い。後悔という言葉に「後で」の意味が含まれているので、腹痛が痛い、と言ってるようなものです。「後で」が重複しているんですね。そういえば重複もジュウフクという人がいますね。そうそう「うろ覚え」という言葉がありますが、ほとんどの人が「うる覚え」と言っている気がします。まさにうろ覚えですね。というわけで、ちょっと調べてみると、いやコレ、私も間違った意味で使っていた言葉がたくさんありました。敷居が高い→相手に不義理があってその人の家に行きにくいこと ハッカー→コンピューターやインターネットに詳しいひと どうでしょう。ジロキチは敷居が高い、なんてよく言われますが、多分「老舗だから…」という良い意味で使ってもらっていると思いますが、間違いです。ハッカーだって、悪い人のことだと思っていませんでしたか。言い間違いをしている言葉、というのもたくさんありました。「間が持たない」→○間が持てない 「采配を振るう」→○采配を振る 「熱にうなされる」→○熱に浮かされる 「愛想を振りまく」→○愛嬌を振りまく
ああ、恥ずかしい。また小学校から勉強をやり直したいと思うのでした。

JIROKICHI_schedule_Mar2015_omote_outlined【2015年3月】 《近藤房之助》
海外公演を多く経験するミュージシャンがそのエピソードを話してくれることがあります。最高だった、美味かった。おなかを壊したけど…そして最後には「日本がやはり最高の国だ」と、みんなこういいます。コンビニがたくさんある。どこにいても安全である。財布が返ってくる。電車やバスが時間通りに来る。日本は世界に誇れる素晴らしい国なのかも知れません。僕たち私たちがコタツの暖かさのように感じているあたりまえの平和。日本の平和はこれからも保たれるのでしょうか。アラブの人たちはとても優しく穏やかで良い人たちなのであると、先日ヨルダンに旅行に行ってきたミュージシャンから聞きました。イスラム教の教えは人殺しなど許されないし、本来、民族を超えた平和を望むものなのだそうです。しかしイスラエル建国以前からアラブ諸国に干渉してきた欧米、近年ではイランイラク戦争などに介入したアメリカに親兄弟を殺され,憎しみの固まりと化した一部の人たちはジハードの解釈をテロによる殺戮=聖戦にすり替えてしまいました。そして軍隊を組織しアメリカへの復讐を掲げテロ行為を続けています。彼らの怒りは、アメリカの仲間である日本にも向けられているのです。西側諸国の罪は重い。彼らがまず侵略や介入の歴史を認めねばなりません。
サラームという言葉があります。こんにちは=アッサラームアレイクム(あなたの上に平安あれ)。アラブの挨拶です。サラームとは、平和•平安という意味なんだそうです。ジャズピアニスト、故•本田竹広さんの1974年のアルバムに「サラーム•サラーム」という名盤があったことを思い出しました。春が訪れるまで、しばらくサラームという言葉について考えてみようと思います。

JIROKICHI_schedule_Feb2015_omote【2015年2月】 《kagalibi》
HPをリニューアルしました。かなり見やすくなったかと思います。皆様、引き続きチェックをよろしくお願い致します。全然話は変わりますが、私はジロキチに来て20年以上になるんです。その頃は携帯もなく、パソコンも普及していない時代でした。当時、店のライブ情報はチラシの他「ぴあ」等雑誌に掲載するしか告知の方法がなかったのです。そして、そういう情報掲載のやり取りは電話、もしくは手書きのファックス。もちろんミュージシャンとのやり取りも電話が主だったので、聞き間違いなども多く、また、確認も今より緩い時代でしたから、ミュージシャンの名前やバンド名の表記などが正確でない場合もありました。今思えばそんな感じでよくやっていたものです。アーティストの事務所とのやり取りも電話でしたから、あるときちょっとした行き違い、聞き間違いで、公演に関するチラシの問い合わせ先が私の自宅の電話番号になってしまっていたことがあったんです。そのときは朝から自宅の電話が鳴りっぱなしになり、ノイローゼ気味になった覚えがあります。聞き違いといえばコレ、相当ウケましたが「吾妻光良&スインギンバッパーズ」が「吾妻光良&水銀バッタ」と告知されていたことがあったとか。ものすごい聞き間違いをしたもんです。余談ですが、35年以上前に一世を風靡したフュージョンバンド「ネイティブ・サン」の一行がツアー先のホテルに着くと『根板物産御一行様』と入り口に書かれていたことがあったそうです。根板って 笑

JIROKICHI_schedule_Jan2015_omote【2015年1月】 《六文銭》
40周年を記念した書籍『ジロキチ・オン・マイ・マインド~ライブハウス高円寺JIROKICHIの40年』が発売になりました。素晴らしい本です。インタビューに協力していただいたミュージシャン&関係者各位に深く深く感謝致します。何が凄いって,過去40年分のスケジュールが網羅されているのが凄い。スケジュールのデータ化に協力していただいた皆さん、本当にありがとうございました。
ところで、本の中で日本を代表するロックギタリスト、Charさんにもインタビューさせていただいているのですが,その際聞かせていただいた思い出話が興味深いんです。Charさんはデヴュー前の若かりし頃、ご自分のバンド、Mad Brothersで1975年2月に出演していらっしゃるのですが,そのときのエピソード。ジロキチでのライブ当日、ドラマーが急に「ライブに行きたくない」とゴネだしました。Mad Brothersは結成したばかり。そして初ライブ。この日のためにドラムセットを購入するなどして本格的に練習を重ねてきたので,メンバー皆で自宅にまで押し掛けていって,とにかくジロキチのライブに参加するよう説得します。そして本番ギリギリ、何とかジロキチに連れてくることに成功。大勢のお客さんを待たせる中、ドラムセットを組み,ようやく演奏が始まりました。それは10代の若者が演奏しているとはとても思えない高度な素晴らしい演奏だったのですが、そのドラマー。終わると自分のドラムセットを片付けもせず帰ってしまったのだそうです。とうとうぶち切れたメンバーの一人が,新品のドラムセットをビルの窓から投げ捨ててしまったのだとか。Mad Brothersはそのジロキチでの初ライブが解散ライブになってしまったのだそうです。