「アース・ウインド&ファイヤーのコピーやらへん?」その一言で1989年、大阪で結成されたアース・ウインド&ファイターズ。伝説のバンド発掘番組「イカ天」への出演をきっかけに話題沸騰、以来30年に渡る活動を続けてきたスーパー・インディーズバンドです。今回は長年リーダーとしてバンドを率いてきたボーカル・橋本仁さんにお話を伺います。

-ファイターズ結成の経緯についてお伺いします。

結成したのは、1989年だから、23歳のときかな。遊びで、アース・ウインド&ファイヤーのコピーをやってみたいって考えていた。誰か一緒にやるやつおれへんかなって……。 当時、俺は大阪でギター&ボーカルを担当するバンドでオリジナル曲を作って活動していたんやけど、同時に「バーボンハウス」という大阪のライブハウスでバイトをしていた。15メートルくらいある大きいカウンターで、ビールなどを滑らせる仕事。スタッフが映画のワンシーンのように飲み物を滑らせている姿が目立つので、それでなんとなく出演するバンドマンたちと話すようになってね。

その中に植田(植田博之・ベース)が参加してた「ラフハウス」というバンドがあった。植田とは歳も近いし、だんだん話すようになって。それでまず植田に「アースのコピーやらへん?」って声をかけた。植田は大阪の八尾出身で、俺は兵庫の尼崎出身。植田が、じゃ何人かメンバー集めるわって。それで同じ八尾の辰巳(辰巳小五郎・トランペット)とか誘って、こっちも数人誘って、それで初めてスタジオに入った。
ホーンセクションは、ツテでジャズ研の学生の子たちを呼んできたりして。23歳のときだからちょっと後輩だとまだ学生なんですよ。その中に荻野(荻野淳・トロンボーン)がいたりとか。その荻野にさらに友だちを連れてきてもらったりとか。

最初はライブをやろうなんて思っていなかった。遊びでスタジオに集まるだけのはずやったんやけど、音を出してみたら面白くなっちゃって。それで一度、ライブをやった。そうしたらくせになっちゃってね。 アース・ウインド&ファイヤーのショウって、演出が凝っていて、ピラミットから現れたり、派手な登場とかするでしょ? 初ライブのときに、そういうの、俺らもできる範囲でなんかしようってことになって、俺がダンボール箱の中に入って、それをパーカッションのやつが台車で押してきてバーンて登場する、みたいな。笑 初ライブだから、お客さんは友だちばっかりなんやけど、どうやって笑かそうかとかしか考えてない。でも、それがあまりにも面白くて、2回目にはビデオ撮影をして映像を残した。

一方、そのころ、俺のやっていたバンドは、活動を広げるために、東京に出ようって話になっていた。でも実際に行こうってなったとき、誰も準備が出来てなかった。笑 もう待ってられへん、俺ひとりで東京に行くからって。
で、東京に引っ越して、バンドのプロモーションで、いろんなところにデモテープを持って行って聴かせたりしていたとき、あるミュージシャン仲間に「こんなのも遊びでやってんねん」と、ファイターズのビデオを観せた。そしたら「これめっちゃおもろいやん……『イカ天』て番組があるから送ってみなよ」と言うので、送ったら、3日後くらいにすぐ電話がかかってきて「今週出てくれ」と。いや、ムリムリ、サラリーマンもメンバーにいるからそれは無理です、って言ったら「じゃあ来週出てくれ」と。エーって。笑 難しいと思うけど、一応連絡してみるわということで、メンバーに連絡したら、みんな「わかった」と。
それでその10日後くらいに「イカ天」に出たわけ。

※「イカ天」=1989-1990年 TBS放送の音楽・オーディション番組『三宅裕司のいかすバンド天国』の通称。歴代イカ天キングには、FLYING KIDS、JITTERIN’JINN、BEGIN、たま、LITTLE CREATURES、BLANKEY JET CITY などがいる。

―ライブ、2回しかやってないのに「イカ天」に出たんですか?

そうそう。活動自体はリハーサルとか1~2年はあったと思うんだけど、ライブは2回だけ。

―以前、パーカッションの石川(雅康)さんに聞いた話ですが、リハなのに、仁さんはモーリス・ホワイトのかっこうで来ていたと。笑 気合入ってるなって。

やりたくてしょうがなかったんだ。そういうのが。笑

―初ライブには上石さん(統・トランペット)とか、サスケさん(金子サスケ・サックス)、高瀬さん(順・キーボード)、佐野さん(康夫・ドラム)はいなかったんですよね。

いない、いない。今いるメンバーでいうと、辰巳、植田、荻野、重田(和博・ギター)、それくらいかな。あとは、ファルセットのボーカル担当のフィリップ・サラリーマンというのがいた。

―イカ天のときもそのメンバー?

イカ天のときはワロウ(木村ワロウ・ギター)も石川もいた。重田、石川、荻野は同い年でね。石川は大阪なんで、おそらくジャズ研だったりそういう流れでバンドに入ったという感じだったんじゃないかな。石川の場合、気が付いたらいたって感じだから。笑

―東京に引っ越してきて、ファイターズは「イカ天」に出て話題になりましたが、仁さんがギター&ボーカルのバンドはどうなったんですか?

「イカ天」で盛り上がって、ファイターズのメンバーはどんどん東京に引っ越してきたんだけど、自分のバンドのメンバーはぜんぜん出てこなかった。笑 のちに、何人かは東京に来たんだけど、そのときはもうメインの活動がファイターズになっていたから……立ち消えになった感じだね。

―高瀬さんや佐野さんの加入の経緯は……。

ビクターのレーベルからデビューして、ツアー中にドラムが抜けてしまって、俺のオリジナルのバンドをやっていたメンバーに繋ぎで叩いてもらっていた。それでツアーを続けていたんだけど、そのツアー先で「ランキンタクシー」というバンドを聴いて、そのドラムが佐野だった。佐野のドラムを初めて聴いて「めっちゃいいやん、やってくれへん」って誘って。

―高瀬さんがよく言うのですが、ファイターズのライブサポートを頼まれてやったら、顔に黒塗りさせられて、現場から現場への移動も黒塗りのままで、路上などでジロジロ見られて、こんなバンドすぐやめようと思っていたって。笑

俺はね、おもしろいことに対して抵抗感をもつ奴がおるなんて、まったく思ってなかった。笑 関西人でも嫌がるやつはおるねんけど、嫌だったら嫌っていうから。言わなかったら、やったらいいやん、という感じでどんどん進んでいってしまう……高瀬は言わなかったから。けど、きっと、めっちゃ嫌やったんやろうな。笑

―ファイターズは、実力がすごくて、本家を超えたコピーバンドってよく言われていましたよね。本家、アースの前座でツアーをする話があったというのは本当ですか?

そういう話はあったね。立ち消えたけど。なんであかんようになったのかはわからへんけど、おそらく、モーリス・ホワイトが嫌がったんじゃないかな。俺たちのライブ映像を観て「俺はこんなんじゃない」って言ったらしいから。笑 その頃の俺の姿っていうのは、まずハゲヅラをかぶって、その上からカーリーヘアのヅラをかぶって、そのカーリーヘアーのヅラを、額が広い感じにカットして、カットして残った部分をもみあげにして貼ってた。それが両面テープなもんで、汗かいたらはがれるのね。ジャンプしたらダックスフンドみたいにぴらぴらってなる。その映像を観て、きっと、「俺はこんなんじゃない」って。笑 それで、ダメだったんじゃないかな。笑

―噂ですけど、本家より演奏がうまかったから断られたらしいと……

それはないない。笑 でも、最近のアースは面白くないね。上手すぎてアースじゃないっていうか。コーラスもバッチリなんだけど、面白い部分がなくなっている。俺は昔のアースのグルーブ感が好きだったな。音程とかが微妙なコーラスでも平気で収録していたし。その感じが好きだったね。生々しいっていうか。バンドっていう感じ。

―先日、MCでおっしゃってましたが、ずっとやっているアースの曲を別の現場で演奏するってなったとき、他人の書いた譜面を見て「コードが違う」って驚いたとか。

そうそう。高瀬と俺がセットで呼ばれていったときに、呼ばれた先のギタリストが起こした譜面を見て、音源を聴いたら、「あ、ほんまや」って。高瀬が気づいたんだけどね。これこれ、このコード!って。笑 今までのはなんだったんだって。笑

―これも、MCでおっしゃっていたんですけど、アースのライブツアーを再現して俺たちもツアーしようぜって、やったら、本家のほうは手抜きをしていたとか。笑

それ「千年伝説」という1993年のアルバムのツアーなんだけど、発売されたときに、すごくいいなって思って。コーラスがきれいだから、コーラスをみんなで練習して、本家がツアーやる前に俺たちが先に全国ツアーやろうぜって。アルバムから6曲をコピーして。

―笑 そこが面白いですよね。本家より先にツアーをやるって。

で、俺たちの「千年伝説」ツアーが先に終わってしばらくして、本家がようやく「千年伝説」を提げて来日しました、観に行きました……ところが、アルバムからは2曲しかやってない。しかもコーラスは全部テープ出し……。「お前ら、やってへんやんけ!」と。笑

それに……5年くらい前かな。アースが来日したときに、銀座のケントスというライブハウスでフィリップ・ベイリーが歌うからと誘われて行ったんだけど、当然、ケントスのハウスバンドをバックに歌うんだと思っていたら、フィリップはひとりでステージに現れて、営業用のテープを流して歌いはじめた。有名どころの曲がメドレーで、15分くらいにまとまったやつ。なんだこれ、ふざけんなよ、って思って。お前、それで、どんだけギャラ持っていくんやって。ショックだった。あぁもうそういうふうにやってるのね、もうアースは絶対観に行かないって。
今のアース本体だって、演奏はうまいけど、ぜんぜん違う。昔の方が絶対いい。
 
―その一番よかったときのギタリスト、ジョニー・グラハムさんとジロキチで共演しましたよね。

97年の5月だね。ジロキチで2日間やったね。超満員だった。ジョニーがステージに現れて、お客さんがどよめいていたね。

―盛り上がりましたよね。仁さんたちがメシを食いにいって、本番直前にジロキチの楽屋に戻ったら、ジョニーさん、衣装を着てギターを持って、鏡の前でポーズ決めてたって。笑

あれは最高だったね。一応食事に誘ったけど、俺はいい、っていう。で、俺たちは外に出て戻ってきたら……ポーズを決めてた。笑 おみそれしました、やっぱ違うな、かっこええって。

―ジョニーさんとはどんなお話をされたんですか?

ひとつ記憶に残ってるのは、打ち上げのときにモーリスの髪型のことをきいたことかな。笑

「モーリス・ホワイトって、昔よりどんどんデコが狭くなってきてるよね」
そしたらジョニーは、「しー」って唇に指をあてて「シークレット!」って。笑

―ジョニーさん楽しそうでしたよね。

大阪でも一緒に演奏したんだけど、大阪のほうは終演後、関係者に北新地に連れて行かれてしまって。きれいなお姉さんが隣に座るところでね。こんなのぜんぜん楽しくないんだけど……みたいな。ジロキチの方はメンバーと鍋を囲んだりして楽しかったんじゃないかな。

―話は変わりますが、ファイターズは過去にいろんな面白いライブをやりましたよね。

コタツライブとか……あと楽屋ライブ。笑 ホーンセクションが楽屋で演奏するっていう。笑 お客さんからは見えないんだけど、MCで、楽屋の様子を中継したり。

コタツライブは、ドラムセットを移動して、いつものドラムの位置に四畳半の部屋っぽいセットを作ってね。コタツにみかんをおいて、隅に14インチのテレビ置いて、壁にカレンダーをかけて。お客さんが入場すると、メンバーはコタツに入ってしゃべってる。笑

―上石さんとか、サスケさんとかが、コタツに入ってUNOをしていた光景を覚えています。本番では、そのコタツにホーンセクションが座って、座ったままそこで演奏して。あれは面白かったなぁ。なんで写真とか残っていないんだろう……もったいない。

ベースの植田が、宙に浮いてベースソロをやるってのもあったね。笑 本家アースで、ベースが宙づりになってベースソロをやるというシーンがあるんだけど、それを再現したくて。トミーってボーカルのやつに、黒子の役を頼んで、ベースソロのときに植田を持ち上げてもらった。笑

―トミーさんの力、すごいですよね 笑

別のバンドで、トミーが俺とドラマーのやつをひょいっと肩に乗せたことがあって。俺が右肩でドラマーが左肩。だから、トミーなら出来ると思って。

「ステージで植田を浮かせて、回転させてくれ」と。黒子の衣装も買ってきて、スマンけど着てくれって。笑

―昔、ファイターズはメンバー全員黒塗りでやっていたじゃないですか。ジロキチに出始めたころは、もうしてなかったけど、何年か前に一度復活して黒塗りしてやったライブがありましたよね。そのとき、たしか、毛穴が詰まるかとかで、しんどい……ってMCで言っていたのを覚えてます。

あれ、ほんまにしんどいねん。初期の頃は、体に全部塗っていたから皮膚呼吸できなくて。特に俺は、ゴム製のハゲづらを被っていたからね。酸素が薄くなってくる感じで、ほんと苦しい。

―話は「イカ天」に戻りますが、ファイターズはとにかく面白い、演奏力がすごいって評判で、当時「イカ天」の審査員をやっていたミュージシャンがジロキチに出演するとき、よくMCで話題にしていたんですよ。強力だった、めちゃくちゃ面白かった、とか。インパクトが強かったみたいですね。業界でも有名だったとか……。

業界では、今でも有名みたいだね。アニメ・ソングを歌ったときも、業界の人は、アース・ウインド&ファイターズのボーカルだって聞いたら「あーっ」って。

知らない人はいないね。橋本仁と紹介されるより、ファイターズのボーカルって紹介されるほうがみんなすぐわかってくれる。

―「イカ天」に出演した後、東京のライブハウスで、お客さんがすごく入ったらしいですね。

店の動員記録を作ったらしい。もう満員電車状態。しかも、150人くらい帰ってもらった。一度店を出たら、俺らも入れなくなったくらいだったからね。やっぱテレビの影響力ってすごいね。

―幻のファーストアルバム『Great-Nanyade』。あれはどういう経緯でリリースすることになったんですか?

「イカ天」で評判になって、いろんなレコード会社から声がかかってね。だけど、メンバーの中にサラリーマンが何人かいたから、デビューっていうのは無理です、って断った。じゃあ、インディーズ・レーベルからでいいからとりあえず1枚出さへんか、って言ってきたのがビクターだった。

―それからファイターズとしての本格的な活動が始まったわけですね。

CDデビューをしたら、CDを出したんだからやっぱりツアーはやりましょうよと。メンバーにサラリーマンがいるから、最初は土日だけでライブの日程を組んでいたんだけど、そのうち土日だけでは立ち行かなくなってきてね。

そしたらサラリーマンのメンバーたちは、ちょっと無理やなって、脱退してしまった。で、もう一人のボーカル、フィリップ・サラリーマンも辞めちゃったので、俺がボーカルの二役をやらなしゃぁなくなった。俺がモーリス・ホワイトのボーカル担当で、フィリップ・サラリーマンがフィリップ役(ファルセット)だったから。
俺は、ファルセットができなかったんだけど、ツアー終わるころには歌えるようになっていたね。追い込まれたらできるもんやなぁって。練習とか言うてる暇もなく、やってたらなんとかなった。それが、今の活動に繋がってるね。

―仁さんはファイターズと並行して、ご自身の活動も盛んですよね。別のグループでデビューしたりとか、コーラスの仕事……DA PUMPのツアーとか。最近だと、オルケスタ・デ・ラルスとか。

そうそう。BETCHIN(ベッチン)とかね。BETCHINは97年のデビューだね。俺とA・T(m.c.A.T/富樫明生)とTommy(前述のトミーさん/富永弘明)。それがらみでDA PUMPの仕事をやることになったんだけど、DA PUMPとBETCHIN、ファイターズを同時にやっている頃は結構忙しかったね。

ファイターズはCDデビューしてから、レコ発のツアーを3年くらいやって、あとは自分たちでライブをやるっていう形になっていた。関西と東京を行き来することは多かったけどね。

―ファイターズのツアーはどんな感じだったんですか。

当時は、ドラムの佐野がワンボックスの車を持っていて、それに機材を全部積んで、車3台でツアーやっていた。関西では、メンバーが散らばって実家のあるやつの家に泊めてもらってね。

いろいろあったよ。佐野がうちの実家に泊まりに来たときは、実家の近所で、どっか飲みに行こう、ってなって、阪神電車の立花駅の駅前に飲みに行った。で、適当な店に入ったら、ヤクザの親分と若い衆が飲んでいて、隣にいたカップルに絡んでいた。笑 わっ、と思ってちょっと離れたところに座ってね。でも、その頃、佐野はスキンヘッド、俺はモヒカンだったから、若い衆にすぐ見つけられちゃってね。「なんやお前ら」って、今度は俺らが絡まれちゃって。でも、親分らしき人が「おう、やめとけ」と。それで、「どないしたんや、なんでそんな頭してんねん」って言われて、佐野が「いやちょっと病気で」って言うたら「なるほど、そんでお前は(髪型を)近づけようとしてモヒカンしてるんやな……お前いいやつだな」って。笑 で、ビールをおごってもらった。
で、次の日も佐野がうちに泊まることになっていたので、また同じ店に入った。ヤクザはいなかった。「よかったぁ、今日は普通に飲めるわ」って飲んでいたら……入ってきたの。「おお兄弟!」って。笑 またビールをおごってもらった。

―笑 そんなことがあったんですね。その佐野さんは、今や日本のトップドラマーですよね。佐野さんだけじゃなく、メンバー個々がみんなすごい人ばかり。ファイターズはスーパーバンドですね。

みんないろんな活動している。ベースの植田も石井竜也さんとかいろいろね。

―仁さんも、オルケスタ・デ・ラ・ルスや……そういえば、仮面ライダーの主題歌とかも。

歌ったね。アニメ系を歌うようになったきかっけは……お祝いで、友人の結婚式にBETCHINで歌いに行ったとき、俺の声を会場で聴いていた仮面ライダー担当のプロデューサーが直接電話してきてね。仮面ライダー歌ってくださいって。

その後、そのプロデューサーがエイベックスに移籍した。エイベックスに入ったことで、今度は、ロックマンエグゼっていうアニメを歌うことになった。そこからどんどんアニソンの歌手って感じになって、幕張のアニメイベントとか、国際アニメフェスティバルみたいなところでも歌うようになった。

―オルケスタ・デ・ラ・ルスは……

パーカッションの石川がサルサバンドをやっていて「仁さんボーカルやってくれ」って。でもサルサって拍子のアタマどこかわからへんやん、て断っていたんだけど、結局口説かれて歌うはめになった。でも、ステップも踏めへんし、拍子のアタマがどこかも必死に考えながら歌ってる状態だったから、動けないし、ほとんど棒立ちで歌っていた。笑 なのに、どういうわけか、他のサルサバンドから「うちでも歌ってくれ」って次々に誘われて。

当時、サルサというと、パーカッションの音楽だと思われていて、ちゃんと歌えるやつが少なかったみたい。それで、ひっぱりだこになって、あちこちで歌うようになって……そのうち、デラルスのNORAの耳に俺の情報が入って、NORAから電話があった。それでコーラスとしてNORAのサポートをすることになった。
その後、2001年の9.11にテロがあって……デラルスが復活してチャリティーコンサートをやろうとなったとき、俺は、NORAのサポートをやっていたから、そのままメンバーとして出ることになった。まぁ一夜限りだしって感じで。でも、それから二度目の復活があって、またチャリティーってことで参加したんだけど、そのときに、やっぱりデラルスは面白いからちゃんと復活しようって話になってね。でもカルロス菅野さんは、自分の活動があるから参加できないと。で、俺が正式にメンバーに迎えてもらったというわけ。カルロス菅野さんがやっていたポジションに俺がハマったという感じだね。

―じゃぁ石川さんが仁さんに声をかけなかったら……

そうそう。サルサなんてやろうと思っていなかったからね。

―石川さんのサルサバンド「バンダ・ミ・ティエラ」って、ファイターズの荻野さんや、佐野さん、ワロウさんもいたじゃないですか? 歪んだギターサウンドの効いた、変わったサルサバンドでしたよね。実力はもちろんすごかったけど、曲がキャッチーで、お笑いの要素がすごくあったり、サルサっぽくないっていうか。

エレキ・ギターを入れてやっていたのは、当時、日本だと俺らぐらいだったかもね。でも、「バンダ・ミ・ティエラ」はもうひとり、丸山純というボーカルがいて、ギターのワロウとかなりぶつかっていたのね。「ワロウとはもうできへん」てなっちゃって、活動が停滞しちゃった。

でも俺はそういうのが嫌い。石川がやらなくなったので、俺が復活させたりね。もうええやん、て。バンドって、考え方の違う他人同士が集まってやるわけだから、メンバー同士がぶつかることなんて必須やからね。逆に、ないってことはないわけだから。当たり前やって、なんで思えへんのかなって。

―その辺がやっぱり仁さんのリーダーシップなんでしょうね。ファイターズだって個性的なメンバーが集まっていて、普段はみんな別の音楽の仕事している。だけどファイターズをやるとなったらパッとバンドになる、みたいな。

ファイターズをまとめている俺の考え方に間違いはないと思う。バンドをぎゅっと締めようとか考えていないから。来てくれるお客さんを楽しませるってことと、(スケジュール的に)無理はしないということ。それが根幹にある。それぞれの活動をしているみんなも、そんなにストレスがかからない状態でできるから、続けられるのかなと思う。ファイターズはきっと、実家というか、田舎というか、メンバーはそんなふうに感じているんじゃないかな。

バンドではよくあるんだけど、スケジュールが合わなくてメンバーが欠けると、例えばパーカッションとかホーンセクションとか、トラ(正式メンバーじゃない人)を入れて仕事をするっていうのが普通なのかもしれない。でも、ファイターズではそれが考えられない。トラの効くメンバーはひとりもいないから、抜けたら歯抜けの状態でやるしかない。生活を考えると、みんなやっぱり他の仕事もやるわけじゃない。そしたらスケジュールも合わなくなってくる。でもファイターズはこのメンバーじゃないとできない。

―ずいぶん前、仁さんが、ジロキチの大晦日ライブでベロベロに酔って歌えなくなってしまったことがありましたね。演奏が終われば通常、僕がリーダーの仁さんにギャラを渡すんだけど、泥酔しているから、その日はしかたなく辰巳さんに渡したんですよ。そしたら仁さんがフラフラしながら僕のところに来て、「タカな、あいつらはギャラの分配とかできないんだから……そういうこと一回もやったためしがないんだから……俺がいないと何にもできないんだから……二度とこういうことはしないでくれ」って怒って。仁さん、きっと覚えてないと思うんですけど。笑
でも、僕は感心したんです。なるほどなぁ……仁さんは、昔からずっとファイターズの看板を背負って、責任を負ってきたんだなって。

初耳。笑

 ―先ほど話に出たギターの木村ワロウさん……惜しくも他界されてしまって……残念です。個性的な方でしたよね、頑固というか。

うん、頑固というのかな。すごく根がマジメで。そのマジメさゆえに理解されないところがあった。曲がったことが嫌い、みたいなところがね。思想的にはいいものがあったんやけど、説明するのが下手なひとだった。俺は高校のときからの付き合いで……学校は違ったんだけど、行ってる喫茶店が一緒でバンド仲間になった。昔からの付き合いやから、俺はあいつの考え方の基本を知っていた。自分はこう思っている、というのを言えへんやつだったから誤解されちゃう。

ワロウは、ギターのプレイスタイルも独特でね。バンドのリズムとか雰囲気とか、無視してるわけではないんだけど、我が道を行くのね。それはファイターズだから許容出来ていたっていうのもある。ファイターズだからこそワロウのすごくいい部分が活かされていた。あいつのカッティングのタイミングってほんとすごい。ファイターズのグルーヴの一端を担っていたと思う。「それちょっとタイミング遅いで」ってなったとしても、あいつは曲げない。タイミングが違うというなら俺をいらんと言ってくれ、みたいな。とにかく自分のスタイルでプレイするやつだったね。

―長年出演していただいてるジロキチについてはどのように思っていらっしゃいますか。

ジロキチはスケジュールを押さえていても待ってくれる。待ってもらえるからファイターズはライブができる。これだけの豪華メンバーをまとめているので、なかなかスケジュールが合わないからね。それに、ジロキチは店についているお客さんもたくさん来てくれるからね。

―2月の30周年ライブについて、長年のファンの方へのメッセージお願いします。

どこまで出来るかわからへんけど、立っていられる限りはやるので応援してください。いや、立ってなくてもやるかな。笑 声が出るかぎり。メンバーがいる限り。

―今日はお忙しい中、ありがとうございました!

インタビュー/構成 金井貴弥  撮影/制作 高向美帆

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2019年2月17日(日)アース・ウインド&ファイターズ 30周年記念ライブ
予約(♪3000)当日(♪3500)
橋本仁vo 重田和博g 高瀬順key 植田博之b 佐野康夫dr 石川雅康perc 金子サスケsax
荻野淳tb 上石統tp 辰巳小五郎tp