ディープなソウル、R&Bの名曲をレパートリーにブラック・ミュージックファンを魅了し続けるソウルバンド「森崎ベラ&Freedom train」。ジロキチでライブを続けながら、苦節7年、コツコツとレコーディングを重ね、ついにアルバムが完成!日本でもっとも早くゴスペル・クワイヤーを編成し、ソウル・R&B系アーティストに影響を与え続けている日本屈指のソウルシンガー 森崎ベラさんにお話しを伺いました。(2017.11)

-幼少のころからブラック・ゴスペルを聴いていらっしゃったそうですね。

たしか小学校の4、5年生だったと思うのですけど、NHKの「世界の音楽」という番組を観たのがきっかけですね。父がNHKの職員だったので、NHK以外のテレビを観せてもらえなかった。笑 「世界の音楽」は、唯一、音楽を楽しめる番組だったんです。そこにあるとき、マヘリア・ジャクソンという有名なゴスペル・シンガーが出演したんです。北海道の根室ってすごい田舎ですから、私、外国人をほとんど見たことがなくて。 画面の向こうで黒いオバチャンがつばを飛ばして熱唱している。 変わった人がいるもんだと思いながらも、でも、なんだか涙が止まらなくなってしまって。魂に響いたっていうか、なにかが降りたんですね。笑
そのあと父に、ピアノとオルガンを左右で同時に弾き分ける黒人アーティスト、アール・グラントのレコードを買ってもらったのを覚えています。当時レコードは高かったので、お誕生日何回か分ということで。

-当時はベラさんの周りでブラック・ミュージックに興味を持つ人なんてあまりいなかったんじゃないですか?

そうですね。一人もいないですね。情報もほとんどない。根室はラジオの電波が届きにくいので、民放でやってる夜中の楽しい番組とかも入ってこないんですよ。ザーザーって。朝鮮とかロシアの放送ばかり。だからラジオもテレビも、音楽番組は本当に貴重でした。 とにかく母は、黒人のオバチャンの歌を聴いて泣いてるわたしの顔を見て「変な子ねー」と言っていました。

-そのNHKの番組に影響されて歌をやろうって思ったんですか?

それでってわけじゃないのですが……歌は子供の頃から歌っていました。幼稚園がパブテスト(キリスト教のプロテスタント系教派)だったのですが、日曜学校といって日曜日は礼拝に通っていたんです。そこで日常的に讃美歌に触れていました。クリスマスになるとその幼稚園でミュージカルのような寸劇をやるんですが、そこで歌ったり。小学校のときは北海道のコンクールみたいなのに選ばれて歌ったりもしました。実は人前で歌うのは嫌で、すごく怖かったんですけど、毎年選ばれてしまってしかたなく行っていましたね。笑 でも学芸会とか文化祭とか……しょっちゅう歌っているうちに、だんだん慣れてきて。中学生のときには先輩たちとフォークソングをやるようになって。小学6年からギターをやってたので、ギター弾きながら歌ったりとか。でも、ブラックミュージックにはことあるごとに接していました。昔、労音などが主催するコンサートなどが盛んで、そういったコンサートにはいろんなミュージシャンが招かれていましたが、あるとき、黒人の男性3人のゴスペルグループが出演したんです。間近で見て感激しました。終わったあとサインをもらいにいって。とにかく黒人音楽が大好きでしたね。

-プロになろうという気持ちは?

全然なかったですね。両親はジャーナリストになるか英語の先生にって、そう思っていたみたいです。厳格な家庭でした。高校生のときにジーパン買って穿いていたら、父親が一週間口を利いてくれませんでしたから。笑 高校のクラブ活動が終わってからもすぐに帰宅しないと叱られたり。寄り道なんて絶対できなかったですね。とにかく厳しい家でした。

-そういった環境で、孤独にブラック・ミュージックを……なんかすごい子ども時代ですね 笑

トランジスタ・ラジオを手に入れたときは、石田豊さんという方の音楽番組を毎週聴いていました。時報が鳴ると「真珠貝の歌」っていう曲がかかるんです。タンタンターン、タンタンターン♫ 「みなさんこんにちは石田豊です」って。その番組でたまに最新のブラック・ミュージックがかかったりしたんですよ。学校からすっ飛んで帰って毎週聴いてました。

-進学されて、その後は……

どうしてもブラック・ミュージックが歌いたかったんです。地元の北海道で就職して仕事をしていたんですけど、体を壊してしまって……。それで仕事を辞めたら親が心配して「なんでも好きなことやっていいよ」ってなったんです。「やったー」と。笑 たぶんもうこの子はコントロールできないと思ったんでしょうね。ディスコに飛び込んで「ぜひ歌手として使ってほしい」と自分を売り込みに行きました。生演奏のバンドに使ってもらって。それからはもう、がんがんブラック・ミュージック。笑
ちょうどディスコが流行っていた時期でした。あ、年齢バレちゃいますね。笑 いつもステージで20代とか言ってるんで。笑 同時期にソウル・バーに出入りするようになって。そこでいろんなレコードを聴かせてもらいました。
当時、レコードは輸入盤なんですね。そのころ、カセット・テープが出回りはじめた頃で、レコードをかけて、スピーカーの前にカセットデッキを置いて録音したりとか。歌詞を聴き取るためには何度も再生しなきゃならないでしょ。それだとレコードが痛んでしまうので、まずテープに落としてから聴くんです。テープで再生して何度も巻きもどして歌詞を聴き取るんですよ。繰り返し繰り返し聴いてね。そうするとどんどん曲にのめり込むんです。深い思い入れができてくる。

-今はネットで検索かければすぐ歌詞が出ますけどね。

まあ、私なんかが取り組んでいるディープなソウルは、ほとんど出てきませんけどね。笑

-ディスコで歌っていたりとか、ソウルバーで音楽を聴いてた時期が今のベラさんの栄養になっているんですね

そうですね、なっていますね。
それで、そういうわけでしばらくディスコで歌っていたのですが、ある日、有名ヒット曲を世に出した北大出身のプロデューサーがたまたま北海道に帰って来ていまして……そのディスコで、そのプロデューサーに声をかけられたんです。それが東京に来るきっかけになりました。

-スカウトだったんですね。

そうですね。けど、すぐドロップアウトしました。こんな歌、歌いたくないって。笑 逆輸入のディスコ・ミュージックで……いわゆる歌謡曲ではなかったんだけど、どうも軽い感じがして嫌で。レコーディング終わったらすぐ北海道に帰るつもりでいましたし。
でも結局レコーディングに至るまでに、なんだかんだと2年近くかかって。会社内で部門のもめごとみたいなことがあったり。その間は飼い殺し状態だったんですよ。だけど生活費は会社からある程度もらえていたので「ラッキー」って感じで。笑
そのころは下北沢でよく遊んでいました。STOMP(※近藤房之助さんが最後のオーナーだった。先日惜しまれつつ閉店)とか、よく行っていました。STOMPに出入りしてたホトケ(永井ホトケ隆)とも毎日のように顔合わせて飲んでましたよ。飲み仲間です。

-で、結局デビュー曲のレコーディングはして、一応発売になったんですよね。

できた途端にレコード会社を辞めちゃいましたけどね。笑

-アルバムをひっさげて発売ライブみたいなのもやらなかったんですか。

一切しませんでしたね。ひどい奴です。笑 相当ツッパっていましたねー。

-オリジナルをやろうと思ったりしたことは?

まずとにかく上手くなりたいと思ってソウルを歌いはじめたんです。世界で一番難しい音楽って、ソウルじゃないかなって思って。フェイクとかあるし、他人と同じ節では歌わないから。オリジナルは、とにかくフェイクができるようになるまで頑張って自分の力を高めてから考えようと思ってました。
そのあともレコード会社数社から契約金ありでオファーをもらったりもしたけど、全部お断りしました。そのころ、女性シンガーのデビューのさせ方がみんなユーミン(松任谷由美)路線だったんですよね。日本語の曲は全くやる気なかったんです。とにかく英語の曲で実力を身につけたいと思っていましたから。タレントさんのバックアップや、スタジオコーラスの仕事をしたりして食べていました。

-当時、ベラさんのようにブラック・ミュージックに傾倒して、ゴスペル・クワイアーをやろうとか、ソウルバンドをやっているような人たちって他にいましたか?

矢野間健というシンガーがいましたね。笑 彼は、北島徹(森崎ベラ&Freedom Trainのギタリスト)とピンクフラミンゴスというソウルバンドをやっていました。すっごいツッパってて。誰も知らないディープなソウルを発掘して、先にやったもん勝ちみたいな。

-知り合って、一緒にやろう、みたいな感じにはならなかったんですか?

ならなかったですね。お互い、ものすごくツッパっていましたから。
北島なんかも、見た目がすごくおっかなくて。笑

-女性シンガーの方は?

LEOの名前は聞いていました。彼女の歌は好きでしたね。それにいろんなことを知っているんです。マニアというか、コレクターに近いくらい。頭もいいしね。このひと本物なんだなぁって思って。LEOちゃんを知って、勇気づけられたっていうか。日本にもこういう人がいるんだなぁって。

-指導者としても大変有名なベラさんですが、ゴスペル・クワイヤーを作ろうと思ったきっかけは?

クワイヤーを作ったのは、30年くらい前ですね。当時、音楽学校や個人でもたくさん生徒を教えていて、そのなかにブラック・ミュージックが大好きなだという子が一人いたんです。彼女が「グループでコーラスをやってみたい」と。それがきっかけでしたね。じゃゴスペルやってみようって話しになって。そこからブラック・ゴスペルの曲を生徒たちにも一生懸命やってもらって、それで定期的にライブをはじめました。

-ベラさんが日本で一番最初にゴスペル・クワイヤーを作った先駆者で、他には活動しているクワイヤーはなかったんですよね。

そうですね。だいたい「ゴスペルってなに?」という感じでしたから。訊かれると簡単に、アメリカの黒人によってアレンジされてつくられた讃美歌だよ、って。説明していました。

-個人的な話で恐縮ですが、僕はアルバイトでジロキチに入って、初めてベラさんのゴスペル・クワイヤーを観てすごく感動したんです。なんだこれ凄い! みたいな。僕にとってソウル・ミュージックの入り口ってベラさんなんです。ベラさんのライブを観るうちにソウルが好きになって。ベラさんはもうひとつ「Tight’n Hips」というソウル・バンドもやっていらして。どっちのライブも楽しみにしていた記憶があります。

そういう人が一人でも二人でもいるっていうだけで、音楽を続けていく気力が湧きますね。

-ところでブラック・ゴスペルと賛美歌の違いは……

もともと讃美歌(聖歌)ってカトリックから生まれていますよね。昔から礼拝で頻繁に歌われていました。アメリカでは、奴隷として連れてこられたアフリカの方たちが教会のそばでも働いていたわけです。彼らは仕事に従事しながら聴こえてくる賛美歌を自然と覚えちゃったんですね。24時間働かされて、食べるものも飲むもの制限され、自由に結婚も許されないという悲惨な状況の中で、彼らが才能としてもっていた力、聴力、歌唱力……そのうち、彼らの間に信仰も広がっていった。神様というのは唯一のもの……アフリカにも神様がいて、古代日本人のように自然神かもしれないし、voodooのようなものかもしれないけれども、とにかく自分たちが幸せになるためには、天国行って神様に会うしかないんだっていう強い思い、一途な信仰からブラック・ゴスペルが生まれたんですね。信仰自体は悪いものではないという白人たちの理解もあって、黒人たちは小さい教会を作って集まって、歌ったり、演奏したり、というのがはじまりです。黒人たちのうちで、比較的教養があった人たちが、聖書を読んだり、賛美歌を理解したり、牧師のような役割を果たして、夢も希望もない人たちをなんとか力づけようとしたんですね。主にプロテスタント系の教会で歌われています。

-いわゆるソウル・ミュージックの発生とは動機が違うんですね。

全然違う。綿をつんだりお茶をつんだりして歌っているうちに、古いギターを親方からもらったり、古いオルガンを白人の教会からもらったりして演奏を覚えて。彼らは神様からあたえられた歌う力、音楽を吸収する力がずば抜けていたんです。ジャズにしてもなんにしてもすごいでしょ。身体能力も。あのジャンプ力っていうか。すごいリズム感をもっているし。 黒人ミュージシャンや、黒人のスポーツ選手たちが評価されて、お金を稼げるようになって、本当によかったなぁ。 黒人ミュージシャンの権利のために尽力したのはサム・クックなんです。黒人たちにも印税が入るように。サッチモなんか、ただで使われて過酷なツアーとかさせられていましたから。

-ところで、クワイヤーのライブのあとだったと思うのですが、ベラさんがカウンターにお酒を注文しに来たときに、「女性の身で、音楽業界を渡って行くのはすごく大変だったのよ」と切々とおっしゃっていらしたことをよく覚えています。

あったねー。 笑 昔は音楽業界って超男社会だったからね。STOMPとか出入りしているころとか、ジロキチやクロコダイルに出演しているときも、女のくせにブルースなんか、ソウルなんか、歌なんか、って必ず誰かに言われる。例え口に出さなくても態度でわかる。「女のくせに」って。まぁそんなこと言っていたミュージシャンはもう誰も生き残っていませんけどね。いましたよ、いっぱい。女のくせにって。

-でもベラさんの周辺の人たちは、女性がどうとか、そういうの関係ないっていう人たちばかりですよね。

ほんとうにそうです。特に私のバンドメンバーたちは「みんな平等だよ」って思っている人ばっかり。周りにいるミュージシャンたちに対してはすごくいいイメージしか持っていないです。

-昔からバンドメンバーの方ってあまり変わってないですよね。旧知のメンバーの皆さんとの出会いはどんな感じだったんですか?

一番古いのはサックスの藤井正弘とトランペットの鈴木正則。彼らとはウシャコダ(藤井康一らが結成したハード・パンク・ブルースバンド。1979年デビュー)というバンドのバックアップをしているときに知り合ったんです。そこで気が合って。楽しいツアーやレコーディングなどを共に過ごしました。20代ですね。
ドラムの岡地曙裕とは昔からの飲み仲間ですね。まぁよく飲み歩きましたね。朝5時くらいになると店が閉まっちゃうので、自動販売機でビール買って、井の頭公園で飲んだりとか。笑 平気で徹夜飲みしたりして。お酒を飲んでいるときも音楽の話ししかしなかった。とにかく飲むイコール音楽の勉強って思っていたんですね。仲間からいろんな情報を仕入れたり。歌い手として、ギター、ベースあるいはホーンセクションの立場を理解するにはどうすればいいのかみたいなことも勉強させてもらって。譜面も書けなくちゃいけないとか。最近はホーンセクションの譜面も書いたりしますよ。ホーン・アレンジをしたり。めんどくさいコードはとっとと吉森くん(キーボーディスト・吉森信)にお願いしちゃうけど。彼は完璧だから。

-最近は色々な方々とも共演されていますね。

自分のバンドだけで歌うというのが長かったので、新しい方との共演は、最初はすごいドキドキしたし、ステージでも緊張しましたね。ストイックなので、前々日くらいからめちゃめちゃ緊張するんですよ。私のことをよくわかってくれている人以外とは出来ないってずっと思っていた。でもギターの北島が、「ホーン・セクションが入ったらジロキチでしかできないし、姉さんがジロキチをすごく大事にしてるのはわかるけど、もっと身軽な感じでも歌うべきだ」って。それで他の店でも、いろんなセットでもやるようになって。
それまではジロキチ以外ほとんどやってなかった。ライブ自体、年に何回かしかやってなかったんですよ。

-今回発売されるアルバムは7年がかりでレコーディングされたとのことですが、レコーディングの秘話とかってありますか

秘話は……レコーディングの途中に震災を挟んだことですね。震災でね、私、歌う気力をなくしちゃって。別に被災したとか、友達が亡くなったとか、そういうことではなかったんだけど、地球の影響を受けたんですかね。すっかりやる気がなくなっちゃって……少しお休みしたの。それから1年半くらいして、ギターの北島からお尻叩かれて。「テープ駄目になっちゃうから早く歌入れしましょう」って。「あぁやるんだ……」って。笑 でも、復帰してから他の場所でもいろんなライブをやるようになっていたので、いざ歌入れってなったらものすごく速かったですね。知らないうちに鍛えられていたんですね。自信のない歌が残るのは嫌だなって思う気持ちは、全然なくなっていて。よし歌うぞーって、前向きな気持ちになれて。

-じゃあ、ほんとうに北島さんの存在は大きいんですね

はい、ほんとに大きいですね。

-最初はバンドの音入れをジロキチでやっていたんですよね。

どこで音入れをやろうかってなったときに、わたしはもうジロキチにお世話になってきて、ここで育だててもらったから、どうしてもワオさん(ジロキチのエンジニア)と録音をやりたい、って。

-そういえば初めてジロキチに出演されたのは?

オープンして4年目くらいだったんじゃないかな。その前は原宿のクロコダイルしか知らなくて。それこそホトケ(永井ホトケ隆)とかと一緒に出演したのが最初じゃないかな。それをきっかけにバンドで出演させてもらうようになって。

-ベラさんにとってジロキチはどんなイメージでしょうか

他にはないライブハウスというのが第一ですね。それは働いている方たちの存在がすごく大きくて。みんな本気で音楽が好きで。働きながらバンドをやってるスタッフの方も多くて。たとえばチビ太ちゃんなんかがいたころは名物料理があったり、マスターが他で働いて稼いできたお金で床を直していたり。ミュージシャンを心の底から応援してくれているライブハウスだと思います。ライブハウスがあちこちにできはじめたときは、ミュージシャンにチケットをさばけといったり、何十人以上動員がなかったらノーギャラだ、みたいな、貧乏なミュージシャンから搾取するような店が多かった。それでライブハウスが商売として儲けているようなのが主流になったときに、わたしはもうジロキチ1本でいくんだって決めましたね。渋谷とかのライブハウスは絶対出ないって。ミュージシャンの卵が可哀そうだなって思いました。そこをきちんと守ってくれるライブハウスはわたしにはジロキチしかないって思って。音楽をやる人間を大切に思ってくれてるはジロキチしかないと。最近はね、荻窪のルースターや四谷のブルーヒートでもライブをやるようになって、他にもミュージシャン大事にしてくれる店があるって思うけれど、ジロキチは最初からそのシステムでやってくれていましたからね。

-マスターは本物のミュージシャンたちには、とにかく金をあげなきゃって感じだったんです

その姿勢が私たちにもむちゃくちゃ伝わっていたんですよ。だから、なんらかの形で恩返しできるように頑張らなければいけないなって、そう思いましたね。

-マスターの気持ちがミュージシャンに伝わっていたっていうのは、とても嬉しいお言葉です。もうマスターはいないけど、これからも僕らスタッフ一同、ミュージシャンのためにも頑張らなきゃって思います。

ジロマスの気持ちを店のスタッフのみなさんが踏襲してるっていうのは……私には感動的です。

-12/8にジロキチの発売記念ライブにてリリースされる「森崎ベラ&Freedom Train」のファーストアルバム。聴きどころをお聞かせください

ソウルをずっと続けてきて、集大成の最初として、今回、初めてアルバムになりました。長年一緒にやってきたミュージシャンたちと最初は記念碑的なものを、と思ったんだけども、今回味をしめたのでこれからもやっていこうかなと。笑 今後も機会があればレコーディングして発表していきたいなと思ってます。とにかくソウル・ミュージックを、ディープ・ソウルを毛嫌いせず聴いてほしいですね。一度でも触れて欲しいです。

-12月8日の発売ライブ、楽しみにしています。ありがとうございました。

インタビュー/構成 金井貴弥  撮影/制作 高向美帆

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2017.12.8 (金) 『森崎ベラ&Freedom Train CD発売記念ライブ』(♪2800)

森崎ベラvo 北島徹g 吉森信pf 小川ヒロb 岡地曙裕dr 村上こうようtb 鈴木正則tp 藤井正弘sax