バカボン鈴木スペシャルインタビュー
今年9月に還暦を迎えたバカボン鈴木さん。音楽をはじめたきっかけから、さまざまなバンド遍歴についてのエピソード、実はお坊さんでもあるという意外な事実についても聞きました。 (2016.10)

–還暦、おめでとうございます

ありがとうございます。

–いきなりですが、バカボンさんは僧侶でもあるというのは有名なはなしだと思うんですが…お坊さんの資格があるんですよね

坊主になるのに国家資格があるわけじゃないけど。笑 お経が読めるかどうかというのは…やはり誰かに習わないとね。

–じゃぁ僕が死んだらバカボンさんにお経をあげてもらうというのも可能なんですか?

可能ですね。それによって成仏できるかは知りませんけど 笑

–宗派でいうと?

真言宗ですね。

–和歌山県の高野山(真言宗の本山)で修行なさったそうですが、実家がお寺でもなく、まして東京生まれ東京育ちなのになぜ高野山に行こうと思ったのですか?

中学の先生に将来どうするんだときかれたとき、お坊さんか、仏師(仏像を制作する職人)になりたいと言ったんです。そうしたら、仏師になりたいのだったら卒業してすぐ京都かどっかに行って弟子入りしてイチからやらなきゃならない、これからの世の中、高校くらいは出たほうがいいだろうと言われまして。坊主だったら、高校行きながら学べるコースもあるみたいだから、どちらでも良いのであればお坊さんで良いのではないか、と。じゃあそうしようかと思って。何宗でもよかったんですが、たまたまその先生が高野山高校に問い合わせてくれて。小坊主として住み込みで修行させてもらう寺も紹介してもらった。

–中学生のときにお坊さんや仏師になりたいと思うなんて、ちょっと変わった子ですよね

やぁ変わってるなんてもんじゃないですね。そうとうヘンなやつでしたね。

–その後、高野山高校を卒業し高野山大学にまで進んで…でも大学は一年でやめてしまったそうですね。

お寺って実は後継者不足に悩まされているんですよ。息子や娘がいても、坊主なんか嫌だというのが結構いて、俺みたいに家がお寺じゃないと他の寺から「うちにこないか?」みたいな話がよくあって。いわゆる婿養子の縁談ですね。檀家さんがたくさんいるような大きなお寺に入れば生活は保障されたようなもんです。だけど、そのころ若かったし、いまよりもっとバカだったし、明日どうなるかわからないというような人生のほうが面白いんじゃないかって思って。職業としてお坊さんになるのはやめることにしました。実家がお寺ではなかったという理由もあるんですが。

img_9423–音楽に興味を持ったのはいつ頃ですか

楽器を始めたのは20歳の頃。高野山大学を辞めて東京に戻って、東京の大学に入り直してからです。大学で出会ったやつらとバンド組むことになり、面白いんでしばらくは熱中してやってました。

–ベースという楽器を選んだ理由は?

イギリスのロックバンド「クリーム」のレコードが家にあったんです。 『ホワイトルーム』とか『サンシャイン・オブ・ユア・ラブ』とかヒット曲がA面に入ってた。B面には『クロスロード』という曲が入っていて。それまでB面は聴いたことがなかったのですが、それを聴いたら、すげえなと思って。低音でブイブイいってるのがベースという楽器なんだって兄弟に教えてもらって。それまではエレクトリック・ベースという楽器があることも知らなかった。今考えるとクリームの『クロスロード』って、楽器始めたばかりの人がコピーするのにはハードルが高いんです。だけど、がんばってコピーしたんですね。朝から晩までという感じで。それでだんだん弾けるようになって。弾けるようになったら面白くて。飯を食うのも忘れるほどでした。

–そして本格的にバンドマンの道に…

「シネマ」というバンドの手伝いをしたのがきっかけです。そのバンドのギタリストが友人の兄だったんです。「シネマ」はムーンライダースの鈴木慶一プロデュースでCBSソニーからデビューが決まっていて新宿ロフトで毎月ライブをやってたのですが、ある日、バイト先の事故でベースの人が怪我をして弾けなくなっちゃった。とりあえず次のライブは無理、ということなって。かわりにベースやってくれないかと頼まれた。プロのバンドなんかできないって断ったんだけど、簡単だから大丈夫だからって丸め込まれて。その半年後、新宿ロフトで「シネマ」のベースの代役をやったときの対バンだったやつらに、ムーンライダーズのライブを観にいったときに偶然会って。話をきいたらそのバンド、いろいろあって解散したらしく…で、新しいバンドを一緒にやらないかって。それが「メトロファルス」だったんです。
「メトロファルス」で初めてリハをやったのが1980年。’81年の3月にクロコダイルで初ライブ。’85年頃にコロンビアレコードからデビューしました。ライブは、ロフト、クロコダイル、エッグマンでよくやったかな。
当時、神保町にボンという喫茶店があって、そこでみんなバイトしていて。練習もボンの近くのスタジオでした。文化人的な連中が来るような店で、女優がいたり、映画監督がいたり、そこにムーンライダースのメンバーも来てたりして。白井良明さんとか鈴木慶一さんとか。そういう出会いも大きかったですね。
初めてレコーディングの仕事の依頼があったのもその頃でした。呼んでくれたのは白井良明さん。渡辺めぐみさんというタレントさんのレコーディングでした。

–バンド活動と同時に、「こんにちは赤ちゃん」「二人でお酒を」などのヒット曲を持つ、梓みちよさんのバックバンドもやっていたそうですね。

「サロンミュージック」というテクノっぽい、男女2人組のユニットがあったんですよ。テクノポップ。頼まれて、渋谷公会堂のライブにバンドの一員として参加したのですが、ちょうどその頃、梓みちよさんがバックバンドを探していて、関係者が観ていて「サロンミュージック」のバンドに頼もうってことになったみたいで、そのままやることになって。当時、ガソリンスタンドでバイトしていたんですが、梓さんのバックで演奏を一回やったら4万円も貰えて。ガソリンスタンドより全然いいなって。ディナーショウばかり月に3回くらいあったんで…12万円。これで家賃払えるなって。 とにかくバンド活動を一生懸命やっていたので、梓さんのバンドはバイト感覚でしたね。28歳の頃です。梓さんのバンドで生活費はなんとかしよう、と。

–パール兄弟は?

「メトロファルス」と同時に「パール兄弟」もやってたんですよ。メトロは自分のバンドという意識があったけど、パール兄弟は最初、手伝いのつもりでした。メトロとパール兄弟が対バンをしたことがあるのですが、その後、ボーカルのサエキけんぞうくんから連絡があって、学園祭でやるんだけどベースが都合わるくなったので代役をやってくれないかって頼まれて。またその後、こんどは年明けにライブやるんだけど、ベースの奴がやる気なくしてて、とりあえずやってくれないかって。そんなこんなでなんとなくズルズルとやっているうちに、バンドメンバーみたいになって。そのうちレコードデビューするってことになって。俺には「メトロファルス」があるし、レコードデビューってなるとどうしようかなって。だけど結局メンバーとしてデビューしました。梓みちよさんのバックをやりながらメトロをやり、パー